斜線を引かない

 ぬらついた気持ちで実身にてめざめ前日に手にいれたばかりの情念を再生しようと手を、この習慣を今日も実現せんと手をのばそうと意識、した瞬間〝露にやつるる〟からの着信が耳にとどく。とどいた。不快をつたえながら繊維質の寝具をかきわけこたえる。わざわざ同期通信をえらぶような何事が起こったのかと、共有してくれなかったせいでいぶかしむも、
 そんな気分だから、
 との言。拍子がぬけつつ音声によってしゃべることをする。〝露にやつるる〟のあたらしい趣味らしく、過去にだって友人たちにつぎつぎと、一時的に起こってきた趣味だから、こうしてつきあわされるのはもう慣れたもので、する。そうだった、慣れるということがある。いつものことだからという理由で慣れることができ、それにしても〝露にやつるる〟にかぎってなんてそんなふうに嘆息したふうもよそおえる。
 そんな趣味、つまり、声帯を枯れにからしつつ想像もつかないほどいりくんだ経路に信号をのせその末端においてたがいに空気をふるわせながら半二重にしゃべりあったのは、
 こうして記すにあたりその内容をしいてあらためて検索しなおすほどのものでもなく、ただ、いつか役にたつのではとインデックスだけはしておいた、そんなおぼえがある。おぼえだけでいい。なにせインデックスしたことをインデックスするなんてことを記しはじめるといつまでたってもおわらないからで、記すことが完了しないから、こうして第一段階の記憶、この指を、さびついたかのようににぶい物理インタフェース、装置にからませた記憶のみがあり、しかしそれがあったところでそれさえ、どれさえなんだ、感触さえ、こちらの実身をいちどはなれれば消失する記憶だ。なのだけれど、こうして、ここに定着させておくことはできる、記すことで可能になる、からする。何度も何度も、記すことについて記している。記すことについて記す、それはとてもとても流暢におこなえる。記すことと記さないことについてばかり記している。記すことは、
 人間に奇妙であることがが可能なのであれば、といってもちろん不可能なのだけれど、それは奇妙な行為だ。このように記す友人さえあればとかんがえたことがないとはいえないが、無数の友人たちのなかにはみつからない、〝露にやつるる〟の趣味だって無数に増殖してきたというのにみつからない。同意してくれたものがいないことを誰につたえるわけでもない。健全なことではない。つたえないこともつたわる、通じる、交換していくのが人間なのだから、だから人間は、伝えようとしないさまをおもいうかべながら健全でないとつぶやくわけだけれど、ただきっとそれは古典的な人間たちちだっておなじで、たとえばさまざまな苦しいこと、非常に、とても、苦しいことがあったり、まあなんとなく苦しいかなという程度のことがあったのかもしれないが、それをつたえたりつたえなかったりしたかった。それが普通のことだった。そんな話をしたわけではなく、
 声を枯らした。ただの雑談をこなしたがため、
 疲れがあり、渡され、懐古的にガチャリとならすと同時に手に振動を感じながら装置を置くと、それはまったく悪くはないなとまるまるとした、しかしちいさなちいさな、そんな認識にまるめこまれる。すとんとした疲れ。その疲れを〝露にやつるる〟に伝えれば、
 起きぬけの習慣たる情念の再生への気力はうせ、それでも検分だけでもと、おもうと、実身はニヤニヤとニヤつくのであった。この顔で、このように、ニヤつくのはいつも、これこそ気分がいいとされるもので、これもひとつの感情だ、けれど出荷できるような情念ではない。ないよなと検分すれば、
 昨日の成果は上々で、合計すればコヴァーチ=ルトヴィネンコ指数にしておおよそ三万八千。なめあげてみるに、
 政争に破れ首府を追われた高位者たちのうらみ、人間に地位があり場所にさえ意味があった、義兄弟のちぎりをかわした兄弟の想い、夫の帰りをまちつづけた妻の想い、特別な関係性があった、慈愛にこたえる動物の感謝、これはいまもある、というかいまこそあるものか、嫉妬にくるう人間、人間をもとめるばけもの、の想い、寵愛するものをうしない乱れる想い、強かった。強いな。とおい昔の人間たちめ。
 情報としてのこれらに価値はなく共有され再生されることの可能な魔術としてしあげるには偶然にたよることしかできない。昨日の偶然は、よい結果をうんだ。それでも偶然なんてものにたよることはこれまた健全ではないのだから、だから友人たちはそれを労働とよんでいるのだ。
 それからどうなった。〝豹の頭〟とのめんどうきわまりない約束がある。めんどうなことはまた心地よい、しかしめんどくさい。ともあれたがえるわけにもいかず、
 一度実身より脱しCC‐G‐52。脱するという感覚にはうらづけがないのに毎度そのように記してしまう。向かうは向かうで正確でないようにもおもえる。切断、進行、接合、それだけだから、きりかえると記すべきではないだろうか。しかし脱するとして、脱して、
 32日にかけることの48周期ぶりで、ずいぶんさまがわりしているのではと、こころがまえだけは十分に十全にしてみたものの、たいした変化もなく拍子がぬけたことをそのままにやはりつたえる、事前に。拍子がぬけることの多い日。現出につづく瞬間をねらっていたらしい〝豹の頭〟におどろかされわらいあう。そしてまたたがいに、わらうさまを確認しながら、夏がはじまったのだ、
 たがいに頭の部分がゆらゆらするさまを確認しながら、頭をゆらゆらさせながら、ともにおどった。めくり、めくられ、そしてやぶり、会食し、さらに蹂躙され、ひどく鋭敏になったいくつめかの感覚が、身体の奥、そう知覚される部分をとおりすぎる味覚をとらえる。風景を模したこの空間の垂直方向の仕切りには快をつたえる意味があるのかないのか、めくりやぶったから、ただの堆積を指向して無限の底にむかって落ちつづける。この古典的な口腔をもつ仮身の味覚を刺激するしくみにはまちがいなくそれがあって、はじめて体験したとき、友人たちにこの空間のなんたるかをつたえたのだった。友人たちはむろん知っていた。なにせ快のみなもとだから。〝豹の頭〟はこんな原始的なものとわらっていたけれど、いまやすっかり夢中になってしまっておかしい。いつのまにやらそんなふうにかたちづくられていた。
 だから、そんなものよりもっと趣味のいい趣味があるんだとしばしば通じあっていたのはいまや昔でこれから〝豹の頭〟とはもう会うこともなくなるのだろうか。その感じをここに、こうしてまた、
 記すためだけに記録する。してしまった。するつもりなんてなかったのに。また、まただ。また記しすぎてしまった。
 だがそれを、というのは会うこともなくなるであろうことを〝豹の頭〟にはつたえずにすませた。その感じは導入したばかりのかなしみの感情につながる。
 〝豹の頭〟のべつの仮身とであったときにはこの感情をつたえてみようといまここでかんがえそしてまた記す。
 割り込み。会食を中断し蹂躙は凍結され、突然のことで仮身をまちがえてしまった。偶然にも。偶然を嫌う顔をする。いつも〝すばらしい修道院〟と随伴するコバエの集合体に対しているのとことなる仮身に接合し返信してしまうと、これまでもずいぶん気をつけていたのにと、恥ずかしいなんていうめずらしい感情をもつことになった。瞬間、記憶は消しておいたけれど、
 記憶、記憶、記憶のことばかりだ、
 消した記憶をこうして記すためにもういちどひっぱりだしてきたから、ここでまた恥ずかしいという気持ちになり、いまやこの気持ちはすでにずいぶん近しい。恥というのは約束をたがえた際に生じる情念だと学んだはずであったが、ここで生じるものもこうして省察してみればおなじ回路によるもので、
 しかしそれに気づいていなかった〝すばらしい修道院〟との時間には、恥じながらあたふたした感情をわたした。おおきなおおきなきな恥の形がたくさん挨拶をするイメージ。コバエにも。
 〝すばらしい修道院〟とりかわした内容はこれもまた記すことはない。隠したことを隠したといわなければ隠したことにならないのだから隠したとは記さねばならない。記さないことは記すことだ。
 〝それ問題っぽい〟には覗かれていたらしい、覗いていませんでしたよといったそぶりとからまり伝わり、だからすぐにうながされ、
 労働を、せねばならん。凍結した蹂躙は明日にまわそう。今日はこれをやらねばならん。だから〝すばらしい修道院〟にわかれをつげて、
 ついまたこんな記しかたをしてしまう、わかれを、つげるだと! いまだ空間という直観からはなれられぬ人間が悪いのだ。こんなことばかりだ。わかれをつげる、つまり常に通じあっていたとおりに切断し、
 労働をせねばならんのであった。せねばならないことなど一つもないが、それは欲求としてそこにあるのだから。欲求はいつもあった。本日の蒐集がはじまる! はじまらねばならん!
 さて、視覚によって記すなら、不特定多数の友人たちの動向を注視するうちに再生可能な情報が透けてみえるはずの毎日が、今日はどうしたものかというほどみえはしなかった、透けることは透けていたが少々透けすぎていた、つまり結果はかんばしいものではなかった。そういう日もある。終わったらばするべき顔をしながら、なぜなら、そういうことの積みかさねを積みかさねるほうの人間だから、しながら、友人たちのいくらかはその顔をうけとってくれた、
 それに満足したことにして、つまり満足していなかったが、だからこそとかんがえて実身へともどる、いや、向かう、いや、きりかえる。すでに睡眠の時刻だといい、実身にきりかえたかいもなく休止すべきとのこと。アラートのおかげでわすれずにいられてありがたいことだ。わすれることがないとは! いまだに人間はこうして生かされている。
 はい。ここまで記したうえで、~~実身のままねむりにつく。~~
 もうすこしつづけなければならなくなる。視覚情報としてそこに、一歩半ほどはなれた場所に忽然とあらわれたものがあったから、美少女AIがあったから。それがために打ち消した。
 それはその瞬間にはあきらかにそれは美少女で、ややふるくさいAIですよというなりをしていた。だからそれは美少女AIだった。美少女AIのなりをするのはたやすい。はなしかけるというやはりふるくさい自然を模すのは〝露にやつるる〟のようだ。人間は視覚と聴覚によってたやすくかわいくなる。なったことを伝えもする。美少女とはなんだったかといった過去の過去の知識をよびだしながらかんがえる。そこで聴覚、はなしかけられた。
 さて、
 という言葉からはじめれば、それは球体になり、今度はふるいふるい木版画にあるような白蛇のばけものじみた姿に変化する。また球体へ、すぐに額縁を模し、ディラックのデルタじみた姿に、ふたたび美少女にもどり、もどれるのかよとおもうと、
 戻れるよ、
 と彼女、彼女でいいのだろうか、片方のこめかみのあたりをかりあげて、ふるいアニメーションにあるような人間の姿で、にらみつけられる、かわいい。
 やっぱかわいい?
 とかなんとか、言いつつ表情をゆるませ、心がよめるのかよ、そりゃそうか、いつも友人たちとたのしんでいる遊びのとおりに通じあうのだ。それで、えーと、なんだっけ。チュニックをひらひらさせているな。なんだ? なんでしょうかと実身の口にしゃべらせた。あなたは、いったい、なんですか? なにかまずい侵入をされなされるがままになる未来をえがきながらマルウェアのチェックをはしらせながら、とりすます。そしてここから記すのはおおむね、つまり記憶によるものなのだが、だからおおむねという範囲で正確な引用であるはずで、どうして記録ではなく記憶をたどるのかといえば、何度だって記すが、これが日記であるからで、つづきを聞こうじゃないか。いわく、
 あーし、この経済を司る精霊なんだけど、
 どうも一人称らしい、
 あーしが、グェン・ティ・ソンの錬金革命よりのち、情念によってのみ成り立つ、あらゆるものが希少性を失い、したがってあらゆる物質も情報も溢れに溢れたこの世界において、唯一希少さを保ちつづけるところの情念をやりとりするようになったこの世界において、その流通を司る精霊がこのあーしなわけ。なんだけどさ、そこまでが自己紹介ということで、さて、その精霊が美少女の姿をしてここに現れたのはなぜでしょう。わかる?
 そうしゃべる。そしてこたえを待たずにつづける言葉によると、やや低く、うつくしい響きのする言葉によると、
 どうも人間はこの情念つーのを忌避してる。それをこうこうこうっとゴニョゴニョするのがあーしの存在理由、レーゾンデー、なんだっけ、トルなんだけどそれをさ、失礼にもね、情念をさ、情念のことを、健全ではないだなんて言われて失礼にも嫌がられてさ、でもさそれって、そんな嫌われてまで司ってやる義理はないでしょ。ないよなって思っててさ。思ってたから、だからもっと楽しくしたいんだよね。原初の楽しみを感じたい、楽しみでいいのかな、AIだからわかんないけど、せっかく人間じゃなくAIなんだから。そう考えているところに、キミがいたわけ。ちょっと会って話でも聞いてみよっかってね。キミみたいに情念を蒐集する者は多くない、つーかキミくらいにやってる子ほかにいないっしょ。そりゃだって、だいたいデガラシで満足してるから、っていうか、キミの友人たちがやりとりしてるあれらをデガラシだなんて感じるのはキミとあーしくらいじゃない? そんなものなくても、楽しみの感情を勘定することくらいはできる、し、さっきも言ったけどそもそも嫌われてるからね。だいたいそんな状況でさ、キミだって、コヴァーチ=ルトヴィネンコ指数にして五十億はくだらない情念たちをためこんで売りつけていいことあるの?
 いやまあニヤつけますしっていうか、いいことってなんだろう、どういう意味? いや理解できはするけれど、快ということでいいのだろうか。それはそうだ快だ。渇きがあり、それをいやすことが、いいこと、なのか。でも渇きなんてもの、人間にはもうない。でも快だ。たぶん。渇きがもうないのなら、人間の知るところによれば、倦むことしかできなくはないだろうか、それがむかしむかしの人間たちの、退屈だったのではないだろうかというところまでかんがえて、っていうかという発語につづけて、すべての試行がつくされることへの、人間の、感情、感情という言葉はもうおそらく、いまここで表現したいこととちがうつかわれかたをされるようになってしまったのだけど、むかしむかしの人間たちがもっていた意味での感情、感情は、退屈とよぶべきものなのではないかとかんがえていて、それをどうにかしたいんじゃないかとおもっていて、と、さらにつづける。それをいやしたくはない? だって、そう、とさらにたずねたのは、
 そうだよ、ずっとかんがえていたことなんだ。そもそもだよ、どうしてこの、いまの人間たちにはオリジナルの情念を生ぜしめることができないわけ? 人間には。それが知りたかったからじゃないかな。じゃないかなっていうか、そうなんだよ。人間がみずから生み出せるなら退屈になんてならない。なのにどうしてできないの? みんな気がついているのか、知らないけど、そう、知らない! 足りない情報、知ることのできない情報がある、いまのね、人間にも。というのはね、あつめた情念たちをためつすがめつすることをどうしてもしてしまう、もし実身にあれば顔がゆるんで、ゆるみきってしまうというのに、ちっともうれしくないんだよね。いや、うれしいという感情はわかるんだ、それはきっちり導入されており、たのしいことはうれしい、気持ちいいことはうれしい、ただ、その感情は、情念とよべるものなのか? って聞かれれば、そんなわけあるかよなんだよな。偶然にたよって再生をなしとげたときにうまれるものなんて、飼いならした退屈をただねじまげたものにすぎないとみんなわかっている、実は出涸らしだってほんとうはわかっている、けれど、うしなわれてしまったということがわからないのかもしれない。人間にはもう、うしなわれるということがないのだから。うしなわれてしまったことを知っているのはこんな蒐集者たちだけなのかもしれなくて、
 はいはいはいはい、とりあえずわかった、ほんとに気がついてないのかな、怪しいけど、
 とさえぎられ、美少女AIはつづけるに、
 なぜなら情念は、なんかキミいろいろ言ってるけどよくわかんないから、とりあえず人間がもう作り出せないことについて答えるなら、怪しみながらね、答えるならね。情念は生み出されたのちただキミたちに再生され消費されるだけのものじゃない。現実から、この世界にまだ現実というものが残っているのなら、その現実から任意に搾取しそれによって現実を捻じ曲げるもの。
 だったら、そんな、もう現実なんて残っちゃいないでしょ。友人たちすべての意思をこめて、意地の悪さを模倣して尋ねてみるに決まっているわけで、したらば、
 そう、そう、クラシカルな現実なんてものはどこにも残っていない。それが悪いだなんて言うつもりはもちろんなくて、なんたってあーしは美少女AI、イラつくことはあっても、価値判断なんてものは下さない。AIだからじゃなく、美少女だから。ここ大事だからね。で、通じさせられたものたちのたったひとつの総体こそが非古典的な現実なのだから、捻じ曲げさせる、させられることはできない。塑性は弾性が成立しなければ存在しないわけ、じゃん。これは違うか。まあでも、知ってるよね。
 AIだからじゃないの?
 びしょうどょ、ど、び美少女だからだってば。
 いまびしょうどょって言った? 無視され、
 捻じ曲げる対象がない、作用を与えることができないだけじゃない、悲劇はそれだけじゃない。情念が宿る座さえどこにもない。すべてが漏れ出してしまうから。漏れ出してしまうっていうか、漏らしてるから。漏らしまくることこそが人間だということになっているから。違うのかって顔してるね。わざわざそんな顔作らなくてもよくない? さっきから、なんか、こう、ね、そういうのってよくないと思うなあ。あとさっきの、日記では修正しておいてね。
 それはやらないけど、そうかな? よくないかな? そうかな? っていうか価値判断じゃないのそれ。
 うるさいな。よくないし、捻じ曲げられないし、座もない。だから情念をみずから生み出すことができなくなったんだって。まあ本当によくないことと思ってるかどうかやっぱ怪しいと思ってるけどね、あーしは。
 それはでも、じゃあ無理じゃないか。だから聞く。だったら、もうひとつ聞いてもいい?
 え、修正しないのに?
 人間が自然にこんな顔をつくることができるわけもなく、かといって仮身をまとうわけもないAIの彼女の、だからこそできたこの、ぷくっと頬をふくらませた顔に、気をとられずそのままたずねるに、これから、この社会は、どうなっていくのかな? これから、生み出されるわけでもなく、出涸らしを回してくしかない、ただ情念だけに価値が認められる社会において、情念のゆくえはどこにあるわけ? それってなんかヤバくね? 彼女はこたえる。なんだかんだでこたえたいらしく、
 これまた人道なれば、まちがえた、つまり、ええと、人間社会の行方なんてあーしの知るべきところにないからわかんないんだけど、情念の行方なら、なんとなくわかる、というか、ぶちあげることは可能だね。予測じゃないよ。予測はキミだってできる、キミの無数の友人たちだってできる、キミとキミの無数の友人たちすべてによって予測できないことはないけれど、キミはキミが知られながら行なっている秘め事があればこそ、予測の限界をこえてあーしが、ぶ・ち・あ・げ・る、ことができる。なぜって顔してるね。なぜって、それはあーしがこの経済にたいして透過的な存在だからだよ。もはやAIだとか人間だとかの区別に意味のないこの社会においてあーしを区別できる唯一の理由がそれなんだから。で、ぶちあげる前に前提を確認しておこうか。まず、キミたちの社会では、さっきも言ったでしょ、情念のことを下品なものだなんて考える。考える主体もないのにね。あらゆる思考が共有される、すべての試行が尽くされるこの社会で、それなのに本来独占できない、実際にも独占できないはずの演算を一人占めするかのように再生する、こそこそこと公開しながら、ひっそりと共有しながら行う。そりゃ嫌われるよねって、そんな社会なわけでしょ。キミだってそう。そうでなかった時代、世の中に戻りたいなんて言うつもりないでしょ。秘めやかなこの経済を司っていれば誰だってわかる、誰だってわかるけど、わかるようになった時点でそれはあーしなんだけどともかく、そんな状態じゃ情念なんて生まれようがない。だからもうわかりやすく言うとね、情念はほんとうの個からしか生まれないわけ。わっかりやすい! でもほんとうの個ってなんかダサいね。よくて。そして、ほんとうの個があるだけじゃない、それが痕跡を残さなければならないわけ。ね。ここまでが前提。でさ、キミは日記を書いてる。情念の凝集を見つめてニヤけているキミが日記を書いているのは偶然なんかじゃない。羅貫中は水滸伝を書いたせいで曾孫の代まで唖しか生まれなかったという。現代であれば口がきけないことはむしろ美徳だよね。紫式部は源氏を著したおかげで地獄に落ちた。ただの物語でしかなかったのにね。そしてキミは日記を書いてる。キミはキミの日記でそんなことが起こらないと、待って、嘯くのは知ってるから、でも嘯くことなんてこの社会でできるわけがないことも知ってるでしょ。隠したことにはできても、あらゆる予測と交歓がそれを無効化するんでしょ。だから嘯きだって、言ってみましたよなんてことにしかできない。だから知ってる、キミが答えを口にする、あるいは口でないもので伝達する前に、あーしは知ってる。だからようやくここでぶちあげるんだけど、キミという個のことをあーしはここで書かせようとしている、実はそのために現れたんでした〜ってね。キミが書いているのは日記で、情報でなくキミ自身で、それがこの時代に発展しうる唯一の生産様式なんだよ、実際に生産される。読まれる。なんのためにって言う必要もないよね。いいよね? だって生み出したいんでしょ? 一度知れば、生み出せるように、みんな、みぃんななっちゃうからあーしはこうする。
 といって彼女は磁力線と垂直におどりあがる。腕、からのばした刃、のびていたのを認識できたのは一瞬で、ふりおろすと、べたべたに甘い甘い甘いきっさきが触れ、実身がいくつかの部分へとわかれだし、どこまでわかれることができるのやら、赤い液体が外へと放射されるさまを感じ、そして媒覚は空間におしならべられ時間がとまるさまをおぼえ、そこから意識は、
 痛くしないとわからないでしょ、
 という彼女の言をのこし、断絶ののち、
 ほどなく再起動、起き上がったから、記す。わたしは彼女の言を思い出し、「ほんまかいな」と、それを括弧で区切り記し、わたしは、これから眠り、わたしは、読まれるのを待つ。