中絶した連載の構想

「あのころなにをしていたの?」あなたはぼくに尋ねた。それにこたえるには、あなたの時間をしばらく僕に貸してもらわなければならない。ひとことでいうなら、物語をつくろうとしていたし、ほんとうにつくりもした、それだけの話ではあるのだけれど、おそらくあなたが想像しているものとはちょっと違う。ほんとうのことなんて人の数とおなじだけあるとか、それはもちろんあたりまえのことで、もしかしたらその「違い」だって、たんなる言葉のえらびかた、考えかたの問題なのかもしれない。だけどそれだけで済ませたくはない、すこしだけ耳をかたむけてほしいと思ってしまうのは、それが同時に、ぼくの個人的な恋の話だったりもするからだ。……そんな厭そうな顔をしないでほしい!事実の糸をつむぐために必要なのは、ぼくたちすべての個人的な「ほんとうのこと」なのだと、ぼく自身が信じていることだって、もちろん理由のひとつになっている。まだ夜ははじまったばかりだろう!だからほんのすこしでいい、聞いてくれないだろうか。


 あのころぼくは、なにがなんでも物語をつくりあげなきゃと考えていた。どうしてかって?そりゃもちろん、ぼくがたくさんの物語に助けられたからにきまっている。ぼくはほんとうは物語なんてたいして好きじゃない、それを構成する原子のほうがずっとずっと好きだし、あのころもいまも、考えているのはそういった言葉のちいさな連なりのことばかりだ。でもどうしてだろう、同時にぼくは、物語というものを読みとらずにはいられなかった。読書がほんとうにつらくて、一日に一行だって読めないと音をあげたことさえ何度もあった。それでも、どうしても物語というものを読まずにはいられないのだ。それは拷問だ。だいすきな言葉たちのことを考えるたびに、自分の物語をつくらなければならない、という声がきこえる。それは拷問だったんだ!……そうして、とうぜんぼくは、物語をつくりあげなければならないという考えにとりつかれることになる。筋がとおっていないのかもしれない。それでも、これが理由だったとしか言いようがない。あの年の初春をむかえたときのぼくの心境。


 ぼくは閉店間際の喫茶店で毎日のようにノートパソコンをひらき、物語をうみだそうともがいていた。雑居ビルの一階、窓際で、目のまえをたくさんの人がとおりすぎてゆく。ぼくに物語なんて書けるわけがない、つくれるわけがない、物語そのもののことよりも、そうやって言い訳をならべたて壁を築いた時間のほうがよっぽど長かったんじゃないだろうか。ついさっきぼくの喋ったいきさつからもわかるだろう、ぼくには書きたいなにごとも書かなきゃならないなにものも持っていなかった。ただ物語をものにしたいという、その気持ちだけがあった。じぶんの好きなことばをただ並べてみたり、すきな本の一節を書きうつしてみたり、やっぱり通りすぎてゆく人たちをながめたり、そんなことばかりしていた。


「物語はつくるんじゃなくて、出会うものなんですよ」と、店長がそうやって声をかけてくれたのは、ようやく桜が色づきはじめたころだったはずだ。ぼくが物語をつくろうとしていたことをどうして知ったのかはもうわからない。きっとなにかの拍子にぼくのノートパソコンを覗いたりしたんだろう。店長とまともに言葉をかわしたのはあれが最初で最後だった。店長はこれまでにいちどだけ物語というものを書いたことがあるのだという。
「比喩とかじゃなくほんとうに――物理的にって言えばいいのかな――出会ったことがあるんです。まだ僕がずいぶん若かったころに、一度だけ。女性でね。それを書いたことがあるんです」
「彼女はきれいな鼻のかたちをしていました。僕はそれを結末にしようと決めた。そう、そのまま書きうつすんです。そうですよ。これももちろん比喩なんかじゃありません」
「あなたは知らないかもしれませんね。あなたの知る物語のほとんどは、そうやってつくられたものなんですよ。ただ、普通の人は一生にいちどあるかないかなんだそうで」
 どうも馬鹿にされているわけではないらしい。今になって考えてみると、世界じゅうでそういうことがたくさん起こる時期――そのことはまた後で話そう――というのがあって、店長は――そしてこれから話すように、ぼくも――たまたまそれに当たったということなのだとわかる。だけどそのときには、店長はどうやら頭がおかしいんだと考えてしまった。比喩じゃなく、ほんとうに物語と出会うだなんて、そんなおかしな話があるはずがない。どんな光景なのか想像もつかない、ぼくは物語のなかに生きているわけじゃないんだ。……とはいえ、その「出会い」についての店長の話しぶりがとても魅力的にきこえてしまったのもほんとうだ。店長は彼の「出会い」についてそれ以上語ろうとはしなかったけれど、それ以来ノートパソコンをひらきにやってくる場所をここと決めたのは、きっとそれに縋りつきたかったからなのだ。頭がおかしくても珈琲が安ければそれでよかったという理由もあるにはあるのだけれど……


 梅雨がやってきて蝉が鳴きはじめるころになっても、相変わらずぼくは夕方のひとときを喫茶店ですごしていた。そうして真夏がやってきて、冷房に身体を冷やされながら、頭をぼうっとさせながら、ぼくはあいかわらず言葉の断片ばかりをかさねていた。断片だけが増えていく。それはいったいなにかの情景描写というわけでもなく、心情の描写というわけでもなく、ほんとうにすべてが、ただの意味のとおらない言葉の連なりでしかなかった。そんなものを積みかさねて積みかさねていくことで、もちろんなにができるわけでもない。鳥が解剖されトランペットが空を飛び、あるいはあなた自身の今のすがただって書き込まれてさえいたかもしれない。でも、そんなものばかり、そんなものばかりだった。
 そうやって毎日をその喫茶店ですごしているうちに、ついに「あの日」がやってくる。「あの日」のことをきちんと思い出すことはとてもむずかしい。これから話す「あの日」のできごとは、ぼくの印象によってものすごく歪められてしまっているのかもしれない。できるだけ正直に話すつもりだけれど、あまり自信がない。ともかく、ぼくにとっての「ほんとうのこと」を話すしかないのだろう。
 あの日あのときまでは、いつもと変わりのない一日だった。いつも通りに喫茶店に来て、いつも通りにブレンドコーヒーを注文し、いつも通りにノートパソコンをひらいた。いつも通り、いつも通り、いつもどおり。いつも通りの一日のはずだった。店長に物語との出会いを聞いてからというもの、本を読みながらつぶしていた時間を、窓の外を眺めるのに使っていた。それもいつも通り。そうやって形だけノートパソコンを開いていることだって、いつも通りだった。つまり、これまでとまったくおなじ一日だった。
 西日がさしこんで、照らされている部分がやけに暑い。窓の外を眺めているあいだに怒りがこみあげてくる。「物語が通りすぎるのがみえたら、とっつかまえてやろう。今はもう、そのためだけにこうやって喫茶店にいるのだ」、そう打ちこんで、これが今日の七回目だということをたしかめる。理不尽だ。意味がはがれおちる。おなじ文言を繰りかえしていても細部はちがっている。そのたびに文章はすきとおってゆき、どんどん理想からはとおざかる。物語を目の端にだってとらえたならば、とっつかまえてやろう。今はもう、そのためだけにこうやって喫茶店にいるのだ。


 そしてディスプレイから目を上げると彼女。突然に。


 なにかとても重要な瞬間というのは、まったく前触れもなくやってくるものだ。向かいのコンビニ、ガラスのウィンドウにもたれかかる彼女。そのコンビニもまた、ぼくの行きつけだったから、彼女の背はぼくよりすこし低いくらいだとすぐにわかった。なぜ彼女がそれとわかったのか、あえて説明するならば、目に見える抽象というものがあるのだと、まずは信じてもらわなければならない。言葉のあやだと笑われてしまうかもしれないけれど、ぼくにはそうとしか言いあらわすことができない。それをなにか映像にしてつたえようとしても、「物語」としての彼女をえがくことはできないだろうし、単純な音としてつたえようとしてもやはり同じことだ。言葉でしかつたえられないものとはなんだろうと考えるときに、その不思議な、彼女との出会いのことを、僕はいつも思いかえす。そんな出会いだった。
 そう、ともかく出会わなければならない。もちろんそのときの僕はひどくおどろいていて、あんまりとつぜんに立ちあがったものだから、椅子が音をたててうしろに倒れてしまった。店長の迷惑そうな顔をよそに五百円玉をテーブルに置いてとびだす。彼女をつかまえれば、もうこんな毎日ともおさらばなんだ、店長と顔をあわせることもなくなるんだ、ノートパソコンを乱暴にしまいこみ、ぼくもついに見つけたとつぶやいた声は店長にもとどいたのかどうか、今となってはもうわからない、でも彼の言ったことは本当だったんだ、すべての断片に系統樹を描き、根を張らせてくれる彼女をみつけだしたんだ、ぼくがどれだけくるしい思いをしたか君は知っているのか、もう逃がさないぞ、ぼくは!ぼくは!!


「ようやくぼくも、自分の物語をつくりあげることができるんだ」。そう口に出したおぼえがあるけれど、どれだけ発音できていたかもわからない、コンビニの前、彼女の目の前にやってきたぼくは、彼女の腕をひっつかんだ。ともかくそんな言葉を発してしまうくらいには混乱していたし、いくつかはぼくが無意識に補ったものなのかもしれない。すると彼女はすこし微笑んで――彼女の顔なんてまじまじと見る余裕はなかったけれど、口のはしがすこし上がったようす、そんな記憶がある――、ぼくの手を握った、その感触だけはずっと忘れずにいる。だからきっと、これは「ほんとうのこと」だ。ほんとうのこととにせもののことのあいだに何のちがいがあるというのだと聞かれれば、ただぼくは彼女の手の感触を救うためだけに、まったくちがうのだと言いはることだろう。その微笑みが、彼女こそぼくの求めていた物語であるという証拠だったのだから。


 ぼくの部屋は喫茶店から歩いて五分、急いでいたからもっとみじかかったかもしれない、ただ時間の長短を感じる余裕がなかったことはたしかで、道中ずっと手をつなぎ前をむいて、彼女の顔を見ようともしなかった。額に汗がにじみ、つよく踏みしめた足がすごく痛かったことをおぼえている。そうしてようやく玄関に入って――鍵をとりだすのももどかしかった――、はじめて彼女の顔をまじまじと見る。はじめて「物語」でなくひとりの女性として彼女を見ることができたとも言えるのだろう。彼女は黒い髪、一般的に言ってそれほどかわいいとは言えないような顔立ちをしていたけれど、ぼくにはそれがすごく魅力的におもえた。
 なにか言わなきゃならない。このときようやく、こうして突然に彼女を連れてきたことを不安におもった。たしかに彼女は微笑んでくれた、それが証拠だったはずなのだ。だから出会ったときには、彼女じしんも、自分がぼくの物語だとわかっていたにちがいないと、そう決めつけていた。だけどほんとうだろうか?彼女はあいかわらず微笑んでいたけれど、もしかしてただの白痴なんじゃないか。「ええと」……なにを言えばいいのか分からなかった。君はぼくの物語だろう、そうなんだろう、って?こうして落ち着いてみると、そんな馬鹿なことをたずねるのがはずかしくなってしまった。「ごめん」と言って目をそらすぼく。しばらく間をおいて彼女は「どうして?」とこたえる。
「その……急に、連れてきたこと」
「知ってるよ」
 ……なにを知っているというんだ。彼女はいっしゅん下をむいて、また顔をあげ、目を細める。そして言う。
「知ってるよ。わたしのこと、待ってたんでしょう。わたしを書くために」
 白い歯がみえた。「書くために」。口をひらいてみるけれど、うまく言葉がでてこない。ああ、のどがかわいた。
「今日からわたしは、きみといっしょにこの部屋に住みます。まずは、そうだな、部屋の合鍵つくってきて」
 そう言って彼女は靴を脱ぎ、ぼくのせまい部屋へとはいってゆく、彼女の足音はとなりの部屋からきこえてくる音楽にかきけされ――
「えっと……ああ!なんて呼べばいい?ぼくはきみのことを」
 馬鹿なことを聞いたと考える暇もなかった。彼女は振りむきもせずにこたえる。
「すぐにわかるよ」
 彼女はもうベッドにすわり、本棚を眺めていた。これがぼくと彼女との最初の出会いだった。