はじめにあるのは光です。あなたはいま、街灯の下に立っています。「いま」というのは時間にかんすることばです。いまは夜で、あたりは暗い。街灯はあなたの頭上から光を発し、ごく狭い範囲を照らしています。あなたは二本の脚で立っています。いや、街灯によりかかって、どうにか身体をささえているにすぎないようです。重力という見えない力にあらがっているのです。明るいところでは、いろいろなものがよく見えます。暗いとよく見えません。あなたには、特定の波長の電磁波をとりこみ、まわりの物体を認識する能力があるのです。
街灯が光を発するのは、電気のおかげです。どんな原理かはよく知りません。どこかの誰かがむかし、電気によって光を発する電球のしくみを考えだして、その便利さに世界へと広まったのです。あなたのほかにも、どこかに誰かがいて、なにかをしていたし、いまもいて、なにかをしたりしなかったりしているということです。これからもそうかもしれない。
電気は、電線を通じてどこからか伝わってきます。誰かがなにかをもとに、複雑な機械を使ってつくりだしています。電線は合成ゴムで被覆されています。合成ゴムは石油からできています。石油は海のむこうの遠い国からやってきます。国というのは、あなたには関係のないことばです。
電気が街灯までやってくるとちゅうに、変電所という施設があります。これは電圧や周波数を変換するなどして電気を使いやすくするための施設で、街の東のはずれにあります。東というのはいつも太陽が昇ってくるほうです。そうです、太陽はいつもおなじ方角から昇ってくるのです。太陽はとても遠くにあって、そして、とても明るい。昇るというのはいくぶん比喩的な表現ですが、それについてはまたあとで説明します。なにかをなにかになぞらえて理解するのは悪くないやり方です。そしていま、あたりが暗いのは、太陽が沈んでいる(これも比喩的な言い回しですね)せいというわけです。それが夜です。
街にはたくさんの人が暮らしています。あなたもこの街に暮しています。夜になると、人はおおむねみな、家のなかで眠ります。そうでない人もいます。暮らすというのは、そうやって拠点を定め、おなじように日夜を繰り返すということです。行動のパターンはもちろん、そのすがたも、おおむねみな、あなたに似ています。でも、それらは誰ひとりとしてあなたではありません。人はみな、これらをひっくるめて、ヒトだとか人間だとか人類だとかいうことばで呼んでいます。そもそも人ということばじたい、そういう意味のことばではあるのですけれど。
東の外れにある変電所は、金網で囲われています。金網は金属でできています。金属は延ばしたり加工したりしやすくて、そのうえ丈夫です。金属はとても便利で、おおむかしから人々はそれを活用してきました。銅や鉄は特に使いやすい。さらには電気も通します。そのため、電線の被覆のうちがわには細長い金属が入っています。それが電気を伝えるのです。
金網で囲われた変電所の手前のくさむらは、あなたのお気に入りの場所でした。いつもひとけがなくて落ち着くし、なんだか電気のにおいがするからと、以前あなたは教えてくれました。なにかいやなこと、あのときああ言っておけばよかった、あるいは、あんなこと言わなければよかった、なんてことで頭がいっぱいにになった日には、日が暮れてからそこへ行って、しばらく頭をかかえるのだと。それから毎度、金網をつかんで力まかせにひきちぎろうとするのだけれど、もちろんそんなことはできず、それでも、金網の食いこんだ手の痛みが心地よいのだと、以前あなたは教えてくれました。ちょっと感傷的になりすぎている気もしますが、こう見えて打たれ弱いところのあるあなたらしいといえばあなたらしい。
ところで、電気のにおいなんてものが、ほんとうにあるのでしょうか。人は、電磁波で物を認識するのとおなじように、化学物質で周囲のようすをうかがうことができます。しかし、電気それ自体は化学物質ではありません。電気がなにかに反応して、その結果生まれたなんらかの化学物質のにおいのことだったのでしょうか。そのことも聞きそびれてしまいました。
その変電所は、近いうちにべつの場所に移る予定です。こうした建物はいずれ朽ちてしまうのです。いや、正確に言いましょう。生き物はやがて朽ちて分解されてしまう一方(そうです、あなたもほかのみんなも死んでしまうのです)、主に金属とコンクリートでつくられた変電所とその金網は、それとおなじ意味で朽ちて分解されたりはしません。もっとべつの形で劣化します。
コンクリートは土からできていて、圧縮には強いのですが、引っ張りには弱く、それを補うために鉄の棒と組み合わせられています。鉄筋コンクリートと呼ばれています。その組み合わせには化学的な劣化をある程度やわらげてくれるという効果もあります。こういうのを一石二鳥と呼ぶのでしょうか。しかしそれでも、金属の酸化が進んでくるにつれて、だんだんとコンクリートにひびが入ったりして、ついには崩れてしまいます。風や雨といった、ひとめには撫でるほどとしか見えない弱々しい自然現象が繰り返し通りすぎるうちに、風化してしまうのです。
あなたのお父さんは工務店の一人親方ですから、そういったことをもっと詳しく知っているかもしれません。お父さんというのはあなたをこの世界に送り出すきっかけとなった人のことです。ちなみに、この世界にあなたが送り出されるためには、もうひとり、お母さんという人も必要です。ちょっと迂遠な言い方ですが、それは許してください。お父さんのことはあなたから何度か聞いたことがありますが、お母さんのことはほとんど聞いたことがありません。お父さんやお母さん、そしてあなたをひっくるめた、家族という単位であなたは暮らしています。あなたは一人暮らしをしたいといつも言っていました。でも、そんなことをしなければならないほどにはこの街は広くなくて、それに、あなたは別のどこかへ行きたいなんて気持ちも、なんだかんだいったってなかったじゃありませんか。そうですよね。
街灯のむこうにはコンクリートブロックの壁。そうです、ここにもコンクリートが使われています。その裏には灯りの消えた家。これはおおむね木造です。鉄筋コンクリートよりも安価である一方、燃えやすいことが特徴のひとつです。ほかにもいろいろなメリットとデメリットがあります。人はみなメリットとデメリットを勘案していろいろなことを決めているのですが、日々の暮らしはその連続なのですが、いつでもうまく勘案できるものではありません。そんな家々が、そして街灯たちが、前にもうしろにも立ち並んでいます。ここは住宅街というわけです。家々には、それぞれ、べつべつの家族が暮らしています。なかには、おじいさんやおばあさんが一人暮らししている家もあるようです。生まれてから長い時間が経った人たちです。この街灯の真裏の家には誰が住んでいるのでしょうか。挨拶くらいはしたことがあるかもしれません。でも、あなたの家まではまだ遠い。
ふだんのあなたなら、今日のように駅前でお酒を飲んだ日には、タクシーを拾って帰るのでしょう。駅というのは電車がとまるところで、電車に乗ればもっと遠くへ行くことができます。ですから、駅前には人がたくさん集まり、その人たちのためにたくさんの商業施設が並んでいるのです。この街でまともに商業施設といえるものがあるのは、その駅前くらいなものです。
そういえば、電車もやはり、おおむね金属でできていて、電気の力で動きます。地面に引かれた軌道の上を走るのです。そんな電車があったって、あなたは別のどこかへ行きたいなんて気持ちはありません。そうですよね。駅前に馴染みの飲み屋があるから、金曜になればそこで一人でお酒を飲んで、タクシーで家に帰る。それだけの場所です。こんな街ではたいしたお金の使い道もありません。商業施設というのは、そうやってお金を使う場所だと考えてもらえれば、おおむねまちがってはいないはずです。お金はいろんなものやサービスと交換できます。貨幣とも呼ばれます。これも便利なものです。お金があればタクシーはあなたを運んでくれますが、どこか遠くへ行くには不向きな手段です。おなじ距離を移動するにも、電車より多くのお金がかかりがちだからです。
そうだ、お金といっても、あなたがお酒を飲んでいる日、金曜日とは関係がありません。そちらは生活のサイクルに関係することばです。曜日という七つのラベルが、太陽が昇っては沈むたびに貼り替えられるイメージです。逆にわかりづらくなってしまったでしょうか。この世界ではいろんなものが回っていて、たとえば、さっきから何度も出てくる電気、その正体である電子は、原子核のまわりを回っています。このイメージはあまり正確ではないのですが、理解の助けにはなるはずです。太陽もそうですね。とても遠くにあって、地球の周りを回っています。地球というのは、この街や、この国や、海のむこうの国や、そういうものがぜんぶ乗っている球体のことです。地球はそれなりに大きくて、あなたはその大きさをうまくイメージできないでしょう。この街の広さとは比べものにならないのですから。つまり、あなたには関係のないことです。
そんなふうに金曜になればお酒を飲んでタクシーで帰るなんて生活のことを、あなたは友人からたしなめられているかもしれません。そんなときには、そのくらいは贅沢してもいいでしょとあなたは憤慨するに違いありません。いや、そもそも誰もそんなことには興味がなくて、誰もあなたの習慣のことなど知らないのかもしれません。駅前の飲み屋のおじさんならさすがに知っているでしょうけれど。
さて、あなたの飲んだお酒という飲み物には、エタノールが入っています。エタノールは、炭素と水素と酸素という元素が複雑な……いや、むしろ単純といえるかもしれないしくみで組み合わさってできています。先ほど説明した原子核は、こうした元素の、とても小さなひとつぶの、その中心にあるものだと考えてください。エタノールはお酒のごくごく一部でしかありませんが、お酒をお酒たらしめている大切な物質です。とはいえごくごく一部であると言ったとおり、お酒の大部分は水です。こちらには炭素が含まれておらず、酸素と水素でできています。
水素はこの宇宙ではたいへんありふれていますが、炭素や酸素は比較的珍しい元素です。宇宙というのは、地球や太陽や、その向こうの星々……太陽のようなものがある空間のことです。地球の大きさにさえくらくらしてしまうあなたには、やっぱり想像がつかないかもしれませんね。太陽には水素がたくさん含まれており、核融合反応によってエネルギーを発生させています。炭素や酸素、そのほか地球上の多くの元素は、太陽の前にそこにあった星が、寿命を終えるときに生成されたものです(星にも終わりがあるのです)。そんなわけで、あなたを含めた人間も、ごくおおざっぱにいえばエタノールや地球そのものとおなじような元素からできています。けれど、その組み合わさり方や、ちょっとした不純物みたいなものが、みんなをみんなたらしめているのです。
さて、そんなふうにいつもならタクシーを使うところ、今日は酔っぱらって気が大きくなっていたのか、あるいは酔っぱらってむしゃくしゃしていたからなのか、それとも酔っぱらって自分を痛めつけたかったからなのか、あなたは歩いて帰ってやろうと考えました。いつもの金曜日であればそんなふうに気も大きくならないし、むしゃくしゃもしない、自分を痛めつけたくもならないというのに。ともかくそう決めてからから一時間足らず、いま、あなたはその選択を後悔しています。疲れて動けない。むろんあたりには人も車もおらず、駅に戻ろうにももう遠い。携帯電話を使って家族に連絡し、迎えに来てもらえばいいのにと思うところですが、どうやらそのつもりもないようです。音声、つまり空気の震えを利用して意思疎通するだけでなく、電磁波を使って情報をやりとりすることもできるというのに、です。
いまは冬で、しかも夜ですから、気温は低い。つまり寒いのです。だからいま、あなたはグレーのロングコートを羽織っています。それから、履くのがめんどくさそうなロングブーツと、裏起毛のデニム。そうやって寒さをしのいでいます。あなたには似合わない、ちょっと派手めのマフラーも巻いています。もともとは妹にプレゼントするつもりだったマフラーです。贈与という行為は人類の歴史でたいへん重要な役割をはたしてきました。だからこそ、プレゼント選びはとても難しい。最近の女子高生の流行りがわからないからと買い物に付き合わされたマフラー。それをいま、あなたは身に付けています。
その日あなたは運転免許をとったばかりで、親の車だからと恥ずかしそうに、ぬいぐるみ満載の自動車で迎えに来てくれました。この街から車で一時間ほどのアウトレットモールへ行きました。自動車はガソリンを燃料にして走ります。電気ではありません。いや、電気で走る自動車もあるのですが、あなたが迎えにきてくれたあの自動車はそうではありませんでした。ガソリンは石油から精製されます。石油は海のむこうの遠い国からやってきます。ぬいぐるみのごてごてに似合わず社内は煙草臭かったけれど、あなたは慣れていたのでしょうか、そのことに気付いてもいないようすでした。あなたのお父さんは喫煙者でしたが、あなたはそうではありません。いや、高校生のころにすこしだけ試したことがあると綾乃ちゃんから聞きました。あなたのイメージには似合わないし、いまどき珍しいことです。
アウトレットモールへ向かう煙草臭い車内で、あなたは「キミは綾乃に似てるから」と言ってくれました。そのせいでしょうか、アウトレットモールへ着くなり、いろんなお店でいろんなマフラーを巻かされました。アウトレットモールは駅前みたいに商業施設がたくさんあるからです。綾乃というのはあなたの妹の名前です。あなたにも、みんなにも、名前というものがあります。あなたは結局、女子高生の流行りなんてものを聞く気もなく、ひとにマフラーを巻きまくるのを楽しんでいただけだったんじゃないでしょうか。
そういえば、女子高生というものについて説明していませんでしたね。まず、高校というものがあります。学校の一種です。学校というのはなにかを学ぶところで、この国ではおおむねみな、子供のころに通います。学校に行って、学んで、帰ってくるのです。学ばないことも多いです。あなたとは、一年間おなじ高校に通っていました。一年間というのは、三百回かそこら、太陽が昇っては沈むだけの期間です。三百六十五日だったりそうでなかったりします。それなりに長い期間と言えるでしょう。この街には高校がひとつだけあって、おなじころに生まれたこの街の子供たちのうち、半分くらいはそこに通います。原子や電子のことは高校で学びました。宇宙のことも、貨幣や交換や贈与のこともそこで学びました。そして、あなたは女性です。ほんとうはうまく分けられないはずなのに、人は男と女に分かれているということになっています。あなたのお父さんは男、あなたのお母さんは女です。あなたの妹も女でした。あなたも女です。ですから、女子高生というのは、女性の、高校生のことです。
さて、その高校の建物は鉄筋コンクリートでできています。変電所とおなじですね。その建物のいちばんうえ、屋上というのですが、そこであなたと、部活にかんする相談ついでに購買のやきそばパンを食べたことがあります。昼休みのことです。やきそばパンはとてもおいしい食べ物で、あなたは購買にやきそばパンが残っていれば、決まってそれを購入していました。ソースの味がするものはなんでも好きだと教えてくれました。あとはやっぱり、人気が少ない場所も好きだと。変電所の話もそこで聞いたのでした。変電所でも、やっぱりやきそばパンを食べていたのでしょうか、それも聞きそびれてしまいました。マフラーをひとの首に巻いて嬉しそうにするあなたの手は、その指は、その日まじまじと見つめたときとおなじように、骨ばっていました。部活のときいつも力強く見えていたのとは、まるで違っているようでした。部活についてはまたあとで説明します。
街灯によりかかってぐったりとしていたあなたは、ひといきついたのか、空を見上げます。曇っていてなにも見えません。雲は水の分子からできていて、星の光をさえぎるからです。宇宙の、とてもとても遠くからやってきた光です。となりの街よりも遠く、海のむこうの国よりも遠くから、太陽よりも遠くからやってきて、それなのに雲にさえぎられ、あなたの目には入ってこないのです。
あ、いや、ひといきついたんじゃありませんね。ちょっと、いや、かなり気分が悪くなってしまったようです。えずいていますね。喉の奥のほうから胃液がこみ上げてくるのを、あなたは感じています。胃液は酸性で、胃は酸に強いのですが、食道はそうでもありませんから、焼けるような痛みを感じています。すこし飲みすぎてしまったようです。エタノールを摂取すると気分が良くなるのですが、摂取しすぎるとこうやって気分が悪くなってしまうのです。人によってそうなってしまう分量はいろいろなのですが、あなたはどちらかというと少なめなほうでしょうか。お酒に弱い、とも言います。アウトレットモールからの帰り道、綾乃と飲みに行けるのが楽しみだと言っていましたね。あの子はきっと強いからと。だけど、けっきょくそれは叶いませんでした。
あ、もどしちゃいました。お疲れさまです。マフラーも汚れちゃいましたね。汚れてしまったそのマフラーは、ウールでできています。羊の毛から作られている、ということです。羊は動物です。あなたも動物です。動物は生き物です。似たようなものです。だからどちらも朽ちます。ただ、人間と違って羊はふわふわとした毛を生やしていますから、人間はそれを刈って、加工して、衣類を作ります。一方人間のほうはといえば、主として頭部と局部にしか毛が生えておらず(この「主」ではないところの毛が曲者だったりするのですが)、いまのあなたのように短く切り揃えたり、そのまま伸ばしたりしています。根本から刈っている人もいます。高校のころのすらっとしたロングのほうが好きでしたが、いまみたいに短いのもそんなに悪くありませんね。案外似合っているんじゃないでしょうか。どことなく綾乃ちゃんみたいに見えます。
弓道部の部長として恐れられていたあなたのイメージもあるのでしょうか、綾乃ちゃんも自他に厳しく、ちょっと近寄りがたい印象を、クラスのみんなから持たれていました。高校生の多くは部活動にいそしむものです。先に高校に入学した者は、あとから入学した者に厳しくあたることも多い。上下関係は絶対なのです。このあたりも動物とよく似ているところです。高校の部活動のひとつである弓道部もやっぱりそうで、弱小だったけれど、部長としてのあなたには威厳のようなものがありました。そんなあなたの妹だった綾乃ちゃんは、弓道部員はもちろん、そうでないクラスメイトからもなんとなく恐れられていたのです。
そうはいっても、実際に綾乃ちゃんと付き合ってみれば、たしかにとっつきにくいところはあるけれど、べつだん厳しい人ではありませんでした。あなたとおなじように目付きがするどく、睫毛が長くて、鼻筋も通っているいっぽう、顔付き以外はまったく似たところがなかったと言ってもよいでしょう。髪型も違いましたしね。姿勢の良いところは似ていたかもしれません。学校からの帰り道、スーパーマーケットに併設されたハンバーガー屋で喋っているときなど、お姉ちゃん(あなたです)はいつもテレビの前でだらけきっているだなんて秘密を喋ってくれたりもしました。部活のときに見るあなたの姿からはいまいち想像がつかなかったけれど、いまになってみれば違和感はありません。向上心があるのは見せかけだけで、ほんとうはそんなことはないのです。
あなたがいま、そうやって道ばたで、胃のなかのものをもどしてしまっている、そんなだらしない人間であることを、あなたの同僚も知っているのでしょうか。職場の隣の信用金庫の窓口のおじさんも知っているのでしょうか。あるいはその向かいにあるそば屋、あなたが寝坊をしてお弁当を用意できなかった日にだけ行くそば屋のおばさんも、あなたがそんな人だと知っているのでしょうか。いいえ、きっと知らないはずです。大人になってもあなたは、外面だけは厳しい人のままなのですから。
だから、あなたのだらしない姿をいつも見られる綾乃ちゃんがうらやましかった。その話を聞きたくて友達にまでなってしまったのです。綾乃ちゃんのことは、ほんとうはそんなに好きじゃなかったのに。もちろん、顔つきだけはあなたに似ている、そのせいかもしれません。だから、あなたが卒業してしまってから、二年生のあいだはしばらくつるんでみたりもしたけれど、クラスが別になってしまったこともあって、ずいぶんと疎遠になってしまったのでした。それなのに、あなたはそういうことに疎いものだから、まだ仲が良いのだと勘違いして、妹へのプレゼント選びに付き合わせたのでしょう。
ようやく立ち上がったあなたの横を、一台の自動車が通りすぎます。いつもならひとけのない道で、こんなふうにぐったりしている誰かがいるのを横目に見て、運転手はびっくりしてしまいました。自動車というのは危険な乗り物です。あなたの乗っていた煙草臭い車だってそうです。運転免許をとるためにあなたが通った隣町の自動車教習所でもそう教えられたはずです。科学や技術というのは、たいてい危険なものなのです。
そんな危険な乗り物があれば、ときには安っぽい小説みたいなことさえ起こってしまうものです。小説というのは人間の娯楽のひとつです。いや、娯楽としてとらえる人もいればそうでない人もいます。娯楽であることと必ずしも排他ではないのですが、小説のことをむしろ芸術のひとつととらえる人もいます。むかしは芸術ととらえる人はいまよりも少なく、おなじように言葉がよりあつまってできたもののなかでは、詩などよりも一段下のものと考えられていたといいます。芸術とはなにかというのはとてもむずかしい話で、ええと、芸術を芸術たらしめている性質があるわけではなく、制度とか歴史によって位置付けられるものだとか、そんなふうに高校の美術教師が話していたことを覚えています。彼女はいまもあの高校にいるのでしょうか。
一方、娯楽というのは人をたのしませてくれるものです。人はみななにか楽しみがなければ生きていくことができません。いや、できないというのは言いすぎかもしれません。実際、あなたのふだんの暮らしにたいした楽しみはありません。小説になど興味はありませんし、趣味もありません。弓道を続けているわけでもない。だから小説でたとえられてもピンとこないかもしれないのですが、うまくない小説のなかでは、唐突に、(誰かにとって)都合のよい話が出てきがちだと言われています。安っぽいというのは、そういう意味です。
ですから、これから突如、あなたの背後に怪獣が現れるかもしれません。怪獣というのは想像上の生き物で、物理的に不可能な形状や生態をし、災害をもたらす畏怖の対象です。人はその描写を目にしたり、そのさまを想像したりして楽しみます。未来のあなたがタイムマシンに乗ってやってくるかもしれません。タイムマシンというのは想像上の機械で、過去や未来を自由に行き来できる、この世界ではとても実現できない夢のような乗り物です。人はその描写を目にしたり、そのさまを想像したりして楽しみます。あるいは、これからあなたの頭の上にタライが降ってくるかもしれません。人はそれを見て楽しみます。これは想像してもあんまり楽しくない気がしますが、目の前で演じられるさまを目の当たりにしてみると、案外おもしろいものです。とはいえ、どれほど安っぽい展開のなかにも、やはり道理はあります。その裏には世界がまるごとあるからです。では、あなたの身にどのようなことが起こったのでしょうか。
ちょうどマフラーを買いに行ったその日の夜に、綾乃ちゃんが交通事故に遭って亡くなってしまったのです(そうです、あなたもほかのみんなも死んでしまうのです)。自動車はとても重たい乗り物で、それなのにとても速く走ります。石油から精製されたガソリンを燃焼させる、つまり酸素と反応させ、内部に吸い込んでいる空気を一気に膨張させ、動力としています。そうやって重いものが速く走るということは、運動量もとても大きくなるということです。運動量が大きいぶんだけ、それが何かにぶつかるなどしたときに与える衝撃も大きくなります。綾乃ちゃんは、目の前のべつの人を避けようとしてハンドルを切った自動車と、コンクリートの壁とのあいだに挟まれてしまったのです。コンクリートはとても丈夫ですが、それでも、自動車がぶつかる衝撃に耐えられるほどではありません。ましてや綾乃ちゃんは動物で、生き物で、コンクリートよりももろい。ですから、衝撃に耐えることはできませんでした。そのせいで、綾乃ちゃんの心臓は止まってしまいました。電気を使って刺激を与えてみても、ふたたび自ら動くことはありませんでした。こんなところにも電気が使われているのです。
もう付き合いのなくなってしまった綾乃ちゃんへのプレゼント選びから帰った次の日、「キミに相談したことは黙っておいてね」と別れ際に感謝された翌日、そんなことをする関係ではもうないのにとこっそりため息をついたあくる日、月曜日の朝、高校の担任が、事故のことを教えてくれました。クラスメイトと同じように驚くよりも先に、頭に浮かんだのは、あのマフラーのことです。渡される相手のいなくなったマフラーを、もしかして、もらえるんじゃないだろうか。一度は首に巻いたことのあるそのマフラーを。贈与は重要です。しかし、冷静になって考えてみれば、そんな流れになるとはとても思えませんよね。それに、そんな状況で綾乃ちゃんのことよりもマフラーのことが先に浮かんでしまうことにも罪悪感を覚えました。だから、そんなふうに考えたことはもちろん、マフラーのことも、前日あなたと一緒に買い物に行ったことも、誰にも言いませんでした。
ただ、その日以来、あなたはいっさい連絡をよこさなくなりました。妹に見立てた後輩ともう一度会うのが、なんとなくおそろしくなってしまったからでしょうか。あなたはあの日のことを、誰かに明かしたりしたのでしょうか。人みな、さまざまな通信手段を介して、情報や感情をやりとりしています。情報や感情は複雑にエンコードされ、特定の誰か、あるいは不特定の誰かのもとに届けられています。届けずにはいられないからです。ですから、ひとけのない草むらにおもむくよりも、あなたの手元にあるスマートフォン、情報をやりとりするために作られた小さな機械(これも電気で動いています)をいじって、あの日あったことを誰かにぶつけてやればよいのです。みんなそうしています。あなたもそうしたのでしょうか。それともやっぱり、誰にも言えなかったのでしょうか。
それから、金曜日の飲み屋で、あなたはちょっとだけ飲みすぎてしまうようになりました。あなたは打たれ弱いのです。命日が近くなれば、輪をかけてひどい。年に一度だけ、朝からそのマフラーを取り出して(あなたはそのマフラーを捨てることはありませんでした)、首に巻いて、仕事に出かけます。取り出すたびに、防虫剤のにおいがちょっときついけれど、すぐに気にならなくなります。その日だけそのマフラーを巻いている、べつの日とちがうマフラーを巻いているだなんて、そんなことを知っている人は、あなたのほかに誰もいません。きっといないはずです。誰もあなたのマフラーのことなんて気にしませんから。
さて、おおむね話し終えました。このあと、偶然にも夜の散歩に出かけたわたしが登場し、あなたを見つけることでしょう。そういう道理です。そんなふうにあなたとその世界をつくりだしたからです。ですから、次はあなたの番です。あつかましいお願いかもしれませんが、これから再会するわたしを、こんどはあなたにつくってほしいのです。あなたのことです、きっとやってくれると信じています。
だから最後にヒントをひとつ。わたしはセンパイを見つけて、きっとちょっと苦笑いを浮かべるはずです。