計算機の中の計算機。そんな比喩を用いて父の記憶の街の登場人物たちを考えている。父というプラットフォーム上に展開された人物たち。父の求めに応じて活動し、虚偽の過去を産み出していく。
——円城塔「良い夜を持っている」
額に前髪の貼りつく夏の縁側、父と将棋を指すのが私だった。名をア兵という(父がつけた名だ)。両人ともにずぶの素人だから、当てずっぽうに指すばかり(はじめに将棋を指そうと誘ったのは父で、こちらといえば、断わる理由など皆無だった)、そんな素人でも決着がつくのがこうしたゲームの良いところで、暑い盛りの暇潰しには悪くなかった(うるさい蝉の鳴き声も聞き放題というわけだ)。
そんなある日の三局目(こしゃくなことに二連勝されていた)の最中に、(ようやく詰みまでの道筋が見えたところで)郵便局のバイクが門の前に停まった。そうだったのか。配達員はいくつかのダイレクトメールをポストに投函すると、縁側の二人に声をかけた。書留であるから来てくれとの由。ちょうど父が長考の最中であったから、ずるをするなよと(盤面を覚えている自信なぞないのに)言い含め、配達員のほうへ向かったのはア兵であった。
届いたのはほかでもない、役場からの死亡内定通知書兼指示書だった(そう来たか、としか言いようがない。事態はそのまま進んでいく)。十五でこの街を出たア兵でも、そのようなものがあることくらいは知っていた。けれど、実際に目にするのははじめてだ。つい数週間前に仕事をやめ、都の下宿を辞してこの街に戻り、かといってここで新しい仕事を探すつもりもなく(しばらくの間父権に浸っていたかった。一般的に言って、人間にはそんな時分があるものだ)ふらふらとしていたア兵は、暇をつぶしにわざわざ役所へと足を運び、住民票を戻していた(ほんとうに暇つぶしのつもりだった)。将棋を指すことにする前の話だ。役所からみれば(もちろん父からしてもそうだったろう)、この都市と血を繋げに戻ってきたと認められて当然の行為だ(そこまでは考えが及んでいなかった)。通知書兼指示書がア兵に宛てられていた原因はここにある(迂闊だったと今なら言える)。
表書きを見てそれと悟ったア兵は、配達員が去るのを横目に封筒を破いた。中には簡潔な文体で(役所から来る書類が流麗であられても困る)次の通り認められていた。内定者——つまり父のことだ——に残されている時間はあと二週間足らずである。ついては宛先人——こちらはア兵のことだ——および内定者——しつこいようだが父のことだ——それに加えて特定の要件を満たす証人、この三者にて役場に出頭のうえ内定者を拘留所に移送すべし。
縁側に見える当の内定者はいまだ次の手をどうするか決めあぐねていた。あと二週間足らずで死ぬ人間が、残った貴重な数分を費して、誰ひとり(対局者たちさえ)興味のない次の一手に唸っていた(ついでに鼻の頭も掻いている。もう詰んだと決まっているのに。もっと近い詰みも知らずに)。ア兵には父が、これから死ぬような人間には見えなかった(けれど、こうなったからには、きっとそうなんだろう)。
ひとまず、今このときに切り出すことではなかろうとア兵は認めた(まったくその通りだ)。それはあまりに安易ではなかろうか(まったくその通りだ。それになにより、考える時間がほしかった)。ア兵は玄関から階段を通じ二階の子供部屋(自室だ)に上り、二十年ものの学習机に通知書を放った。それから縁側へと戻った。余人であればどんな顔をすべきかと惑うところだが、ア兵にとって動揺を隠さねばならぬ状況とは言えなかった(それはそうだろうよ)。事実、書留の件が話題に上ることもなく、暑くてこれ以上考える気が起きないとの父の言から、対局は途中止めにされた(体よく逃げられたと言っていい)。
そうしてその夜、寝床でア兵は考えた。
一つ、いつ切り出すべきか。きっといつかは切り出さねばならない(それが因果というものだ)。けれど、今すぐというわけではない(そうらしい)。そしてこういうものは、その時がくればそうとわかるものだ(事実、万事そんな調子で生きてきた。父の教育の賜物だ)。
一つ、手続について。当然にア兵の初体験だ。従って機微もわからない。知らず役人に無礼を働くのはいただけない(気にするところがおかしい、とは言えそうだ)。だから明日書店へ行こう(正直言って気が進まないんだけど)。確定申告の棚あたりを眺めれば、必ずやハウツー本が並んでいるはずだ。
それからもう一つ、証人の問題だ。これについては午後いっぱい心に浮かんでいた妙案があった(それがなんなのかはまだ明らかにはされないらしい)。書店のついでに実行すべきであろう。
このように懸案が解消したおかげで、熟睡するのは容易くなった(ありがたいことだ)。睡眠時間はしっかり取るべしとは(これも)父の教えであった。
それから翌朝。ア兵は商店街へと向かった(もちろん父は家にいて、だからこの間の行動を見聞きすることはできない)。この街にも商店街といえる場所がひとつだけある。高速基幹線の登場するより前には活気があったと父は言うが(父の昔話はそんな時代のことばかりだった)、いまやすっかり寂れていた。近隣都市間での物理法則の違いが比較的小さかったおかげで、人が流れてしまったのだ。いまやみな隣の街のイオンモールへと足繁く通う。イオンモールにはすべてがある(イオンモール、それはもう普通名詞なのだろう)。一方この街にはもはやなにもない(厳密にはそうではないはずだけど、たしかにそう言って構わない気がする)。だから、朝いちで書店に向かうア兵が足を踏み入れたこの通りには、無数のシャッターが景気の悪そうな面のまま閉まっていた。
とはいえそんな商店街にも、辛うじて本屋と言い張れそうななにかがどうにか残ってはいる。ア兵が生まれる前からそこにある書店だった(もちろん、生まれる前からあると教えてくれたのは父だった)。そして、ア兵はその店主が苦手で、そのせいで今まで書店に立ち入ったことがなかった。なぜって、顔が怖いのだ(そういえば父には話したことがあったっけ)。ア兵が子供のころ、店の前を通るたびに、ア兵は店主を恐れた。店主は若いころ俳優を目指していたのだが、ゾンビ映画のオーディションを受けた折、その顔が並んでは怪物が霞んでしまうから採用できないと言い渡された経験さえある(らしい)。その店主が、ア兵が成人しこの街に戻ってきたこの時になってもまだ、その店先に立っている(どうにか生き存えさせられていたんだろう)。子供のころに見た姿から、一切歳をとっていないように見えた。店の外に並んだ雑誌を入れ替え入れ替えしていた(その行動になんの意味があるのかはわからない)。
ア兵が店主を避けるように店に入ると、(残念ながら)店主もあとから付いてきた(入れ替え入れ替えしてろよ)。追従じみた笑顔は一層恐しい。そのうえ話しかけてきた(勘弁してほしい)。うちの店ね、左右の棚の先まで歩くとループしてくれるしくみになってるんですよ。だからあっちへずっと歩いてってもらえればね、いくらでも棚が続いてますから。店主に従い店内右奥へと進んでみれば、いつのまにやら左奥に立っている。先ほど並んでいたと思しき本はそこになく、今やまったく別の棚に変わっていた。
とはいえそうしたところで、店主のいる位置も入口の位置も変わらない。こんな狭い店のなかをア兵がどれだけ歩いたところで、同じ場所にいる店主の話し声は変わらず聞こえてくる(怖い顔が見えないのだけが幸いだ)。「同じ場所に何冊も本を置けるんで重宝してるんですよ」と嬉しそうな店主(だから怖いんだって)。「そうですか」とア兵は答えた。
それから八順ほどループを回したあと、「暮らし」の棚(分類が大雑把すぎないか)に目当てのありそうな一角を見つけた(途中に見つけた将棋コーナーに心が躍った気がしたが、今更遅いと理性が言った)。ほかの都市には見られない手続を主題とし流通も限られているためか、数冊あるうちのいずれも表紙に美少女のイラストがでかでかとして、同人誌めいた雰囲気がしている。ア兵はいくらかめくってみた末、どれも中身に変わりはないと認めるに至り、『サルでもわかる! いちばんやさしい死亡内定手続』を選んだ(美少女がサルを回している表紙絵の賑々しさが気に入ったのはたしかだ)。以下、これを「手引」と称す。ア兵は手引を脇にすぐ後ろのレジへと向かった。店主も付いてきた(そりゃそうだ)。それまでずっと喋っていた店主は(なにを言っていたかまったく覚えがない)、その段になってようやく黙った。会計をしながら「このたびはご愁傷様です」などと言い添えるのだった。残念そうな顔をしたかったらしいが、相変わらず怖い顔にしか見えなかった(ほんとうに怖かった)。
「意味わかんねえよ」と答えたのはア兵の初恋の人であった(あー、なるほどね)。名を藤十郎という。ア兵はとりあえず曖昧に笑って頷いた(たしかに意味がわからなかろう)。証人にはまず親類縁者を頼るものだと手引にあった。けれど、ア兵には親類付き合いのことはよくわからなかった。父自身も疎遠だった。であればあらかじめ役所に相談せよと、これも手引にあった。けれど、前夜の思い付きがどうしてもア兵の頭を離れなかった。だからア兵は、昼飯に寄った商店街の外れの洋食屋にて、電話と電話帳を借りた。初恋の人を呼び出した。暇だから遊びに付き合ってくれないか、云々。その洋食屋に来てくれるよう申し入れた。
藤十郎の住まいがそこから近いことは知っていた。小学生のころに一度だけ、二人で飯を食いに来たことがあったのだ。昼間からそこらじゅうにイルミネーションが瞬いていること、そしてピラフが美味いことで知られている店だ。一点透視の商店街の消失点にあって、そうと願わなければ訪れることのできない一角にあることを知る者も多かった。店主の気が少しでも帰宅に進まないときには実際に家に帰れなくて困るといった事案も時折発生していた(らしい)。
ア兵が小学校に通っていたある日のこと、教室はピラフの話題で盛り上がっていた。秋の放課後で、教室には夕日が差していただろうか(すべての都市から無限遠にあたる太陽から光が届く便利なしくみだ)。カーテンが揺れていたかもしれないし、透かして見える校庭でサッカーに興じる同級生たちもいたかもしれない。そんな教室で、(どうしてだか勿体ないことのように感じるものなのだ)帰宅をぐずる複数の生徒たちが、美味いピラフが無限に出てくる洋食屋を噂していた。ア兵もそのひとりだった。そして自分は食べたことがない旨ア兵が表明したところ、それはもったいないことだから一緒に行こうではないか、自分は昔からの知り合いだから、小学生二人であればタダで食わせてくれるはずだ、そう誘ったのがほかでもない藤十郎であった(それはほんとうの話だ)。
ところでそのときまでア兵が気付いていなかなかったことに、藤十郎は小学校の高学年に属する児童にしては発育が良かった(ははあ、発育が、良い、と)。同時に、面倒見もなかなか良い。そういうことがわかったからには、次の日曜に店の前でと約束をした次の休み時間から、ア兵は藤十郎のことを目で追うようになった(それはほんとうの話だ)。何度も見ているうち、藤十郎は睫毛が長く目が大きく見えるのだな、とも思った(ほんとうの話だ)。以上が、藤十郎がア兵の初恋の人となった経緯である。ア兵が恋を知るにはその程度の情報で十分だった(付け加えるなら、その誘いを、同級生たちが囃し立てたことも挙げられるかもしれない)。
その週末。二人はどうにか願いを合わせ、店に辿り着き、とうとうピラフにありついた。藤十郎の目論見どおり、無料でよいことになった(もちろん店主は、次からはお父さんお母さんと一緒に来てね、と言い含めた)。ピラフは美味かった。イルミネーションの纏わりは、テーブルと椅子、さらにはラミネート加工されたグランド・メニューにまで至っていた(メニューに絡んだイルミネーションがどこからエネルギーを得ているのかは判然としなかった)。そういったことはよく覚えていた。
それにしても、二人でどのような話をしたのだったか。藤十郎の到着を待つあいだ、ア兵はそれを思い出そうとした。
「だから、狂ってるわけよ、この街は」。藤十郎はそんなことを言っていたはずだ(こういった記憶ならなんでもそうだけど、思い出されているのか作られているのか判然としない)。「だから」と言い条、どんな口上からの順接でもなかった。いや——小学生にしては主語が慎しすぎやしないだろうか。「狂ってるわけよ、この宇宙は」——これに違いない。小学生であったア兵の初恋の人に、まさにふさわしい言葉ではなかろうか(いや……いや、やっぱり「街」だったんじゃなかろうか。まあいいんだけど)。そのときのア兵にはよく意味が飲み込めなかったけれど(よく飲み込めず曖昧な笑顔で頷いている間じゅう、藤十郎はここがどのようにおかしいのかについてずっと喋っていた、たしかにそうだった気がしてくる)、だからこそ藤十郎のことがいっそう神秘的に見え、ア兵は藤十郎のことがもっと好きになってしまった(結果としては、それでいい気もする)。
そして、それが初恋であるからには、結実することなどありえない(わかっている。そういうふうにできている)。藤十郎に気持ちを伝えぬうちに二人は中学生になり(どちらも同じ中学校に通うことになった)、ア兵の気持ちは(とくに理由もなく)冷めてしまった。それでも藤十郎は、面倒見が良いままでありつづたようだった。それはア兵の冷めた目から、傍目から見てもそうだった。発育は同世代に追い付かれていたし、この都市だか、それらがつながったこの宇宙だかが狂っているなどと教室で宣うことはなかったけれど、面倒見だけは良いままでありつづけたようだった(重ねて言うが、ほんとうの記憶かどうかといえば甚だ自信がない)。
だからこのたびア兵が藤十郎に声をかけたのも、その面倒見を頼ってのことだった。記憶を辿りつつ考えるに、このたび街に戻ってきてはじめて、この都市だか、それらがつながったこの宇宙だかがたしかに少しばかり狂っていることに、あまりに遅まきながら気が付いたのも理由のひとつであったかもしれない(正直なところそこまでのものわかりの良さはなく、気付きつつあるというのが正確なところなのだけれども、ともあれたしかに符合はしている)。そうして呼び出したところ、藤十郎のほうもちょうど暇を持て余していたらしく(最近現場があまりない、とも言っていた)、洋食屋を願い、実際にやってきてくれた。ごく簡単に近況を交換したあと、ア兵が父の死亡内定に際する証人の話を切り出したところ——というのが事の次第であった。
あのときと同じイルミネーションのしわざとなる複雑な陰影に彩られた藤十郎は、そして言った。「意味わかんねえけど、そういや、お前の母ちゃん、早くに亡くなったんだっけ。お前も早くにこの街を離れてたから、近所付き合いとか親戚とか……まあ、頼りづらいだろうしな」。ア兵が曖昧に笑って頷くうちに、藤十郎のほうはどうやら一人で合点がいった様子であった(こちらはえらくものわかりがいい)。それから「だったらいいさ。私もはじめてだからよくわかんねえけど、おもしろそうだし……って、父ちゃんが死ぬってのにおもしろいって言うのもなんだけどさ。引き受けてやんよ。うまくできるかわかんねえけど」などと言う。交渉はうまくいったらしかった。「まあ、これがあるから」と手引を見せるア兵。万事安心であることを示したのだ。藤十郎は笑った(どうせ万事が安心だからだろう!)。小編成から成るゆるやかで安らぎに満ちた音楽が店の奥から流れてきて、祝福するようにイルミネーションが煌めいた。ピラフの芳しい香りが辺りに満ち、溢れた。この無限の都市は人々を健やかに育み続けてきたし、これからも育み続けていくことを、これでもかと表現していた(どうせ万事が安心だからだろう!)。「ともあれ、ひとまずご愁傷さまだ」と藤十郎。それから二人で食ったピラフは、(いくら芳しいからといって)美味くはなかった(美味くてなんの問題があったんだ)。店の端にあるテレビでは店主の孫と思しき子供がなんらかのビデオゲームをプレイしていた。銃口からなにか噴射している様子だった。
父を置いてのア兵の様子はこのような次第であった(そういうことにしておく)。
(で、次はなにを?)
どうやって父に、そのことを伝えたのか。
——といって、藤十郎との会合を経て帰宅したア兵がリビングの電話棚(花の模様のクロスが掛かっている。電話が鳴っているのは見たことがない)に放置していた手引を(疲れてそのままソファに横になり、知らないうちに眠っていた)、夕食の買い物から帰った父が見つけたというだけのことだ(これじゃあ、その時が来ればわかるもなにもないだろう)。「どおりで。最近、膨らんでいるような気がしていたんだ」というのが、自動車で十五分のスーパーマーケットの袋を提げた父の第一声だった。ア兵は嫌な予感がした(した)。手引によれば通常はだんだんと縮んでいくもので、膨らむケースは稀であるという。膨らんでしまえば運搬に難儀することは容易に想像できたが、手引にあるのは縮んだ場合の記述のみ。「大変だろうが、まあ、うまいこと運んでくれよ」というのが続く台詞で、父がこの手続についていくらか知っているらしいことが伺えた(じゃあどうして膨らもうとするんだ)。
そのうえ父は拘留を心待ちにさえしているらしかった。それにしても早く母に会いたいものだ、と(そういえば、母のことが思い出せない、ほんとうに母などいたのだったか。花模様のクロスは母の痕跡だろうか)。やはり手引によれば、配偶者に先立たれた内定者は一般に、すぐさま受容ステージへと至ることが知られているらしかった(さすがに茶番めいていやしないだろうか)。
役場に行く日取りは一週間後と決まった。主に藤十郎の都合だ(もちろん洋食屋で連絡先を交換していた。やりとりついでの出来心で一緒に通った小学校への深夜の襲撃を提案し断わられたことは秘密に、しておけばよかったな)。……父のほうはといえば、母への土産話をまとめるだけの時間があればいいとのことだった。どのくらいかかるのかと尋ねると、三日あれば十分との由。ア兵が示した意思といえば、膨れきる前に連れて行っておきたいと藤十郎に伝えたことくらいだった(いずれにせよ変えられないのだ)。
それから二日ほどは従前どおり二人で将棋を指す余裕があった。三日を過ぎるころには目に見えて膨らんできた。そろそろ駒を持つ手がままならない。だから将棋はやめにした。父の着用できる衣服がなくなってしまうことにも気が付いた。これについては、どうせ親子二人しか住まない家なら、裸でもよかろうということにした(服のほうもどんどん伸びれば厄介だと考えていたところであったから、ずいぶんほっとした)。将棋も指せぬのは詰まらぬから話の相手をしろと父は言い、とにもかくにも母が死んでからのア兵の動向ばかりを話させた(ほんとうに母とやらに伝えるつもりか、それとも自分が知りたかっただけなのか)。高校に通うために住んだ寮。街を出てから一度も会わない父から金を貰って大学に通った。都でしか通用しない職に就いた。辞めてこの街へと戻った。
そんなふうにア兵の思い出を消費しているうちにも父は膨れていく。生前の父——今もって生前ではある——はどこへ行ってもすぐに見失ってしまうような存在感の薄い小男であった。それがいまやずいぶんと大男、しかも背が高いとか恰幅が良いなどというものではなく、小男をそのまま上下左右に伸ばしたようななりをしている(見詰めていると遠近感が信じられなくなってくる)。内定者なぞ胸ポケットかトートバッグにでも入れて役所に行くのが通例というが、そうはいきそうになかった。
予定の日まで二日と迫り、父は言葉を発しなくなった。どこかが苦しいわけではない、なにがしかも言葉で伝える必要がないのだ(そうですか)。図体と発声のほかに生理的な変化はなく、相変わらず飯を食い、排便し、夜には眠った。屋内が不便になったため、庭で世話することにした。代謝も落ちているようで、その巨体にもかかわらず入るものも出るものも少ないのは幸いであった(にもかかわらず膨れていくとは、えらく都合の良いことだ)。おおざっぱに言えば、父はひとりで充足していたと言える(都合が良いうえに、のんびりしたものだ)。手引によれば、これは実際に幸福な状態であるという。根拠はとくに述べられていなかった。ア兵は「のんびりしたもんだな」と口に出して言った。父はなにも答えなかった(ほんとうにのんびりしたものだ)。最後に聞いた父の言葉はなんだったか、前日のことのはずなのに、ア兵はそれさえ思い出せなかった。それは言葉なき理性であって、道行く人がその庭を覗き込んだなら、どこか遠くの都市の外れの動物園にどこからともなく連れて来られたオランウータンのことを思い遣らずにはいられなかっただろう(音に聞こえる言葉がないからといって、理性がないと判ずるのは浅はかだ)。
そして一週間が過ぎた。予定日まで加えて一週のはずだが、膨張速度の増加を鑑みればどうなっていたことか。ア兵は当日の朝になって急に恐しくなった。けれども、藤十郎が家を訪ねてきてくれたことで恐慌にまでは至らなかった。これが包容力というものだろうか(?)。
庭に佇む巨人を眺めた藤十郎は「こんなにデカくなってたんだな」とひとりごち、「で、どうやって連れてくんだ?」とア兵に尋ねる。手引によれば、非常な例外を除けば内定者を連れて行くことが必須らしく、そして膨れたことは「非常な例外」には含まれないようだった。「歩いて行くしかないみたい」とア兵は答えた。これだけ膨れた人間を載せられるような乗用車はなく、トラックを借りてくるにも伝手がない。「まあそうなんだろうな」と藤十郎。
「無理矢理引っぱってくのか?」
「たぶんそんなことしなくても大丈夫。自分からはなんにも言わないんだけど、こっちがなにか言えば伝わりはするみたいで」
「じゃあ、今から役所に行くって言ったら付いてきてくれるって?」
「そういうこと。もともと楽しみにしてたみたいだし、今更心変わりする理由も思い付かない」
果たしてそのとおりであった。「じゃあ、そろそろ行こうか」とア兵が父の前で言葉にし玄関先へ移動すると、父もそれに付いて歩く(そうでなければ困る)。強すぎる陽光によるものだろうか、父の影は尋常でなく濃く見えた。
役所までの道のりは歩けば小一時間ほど(ふつうは車を駆る距離だ)。淀んだ水受けからいつ腐るとも知れない臭いの立ち上る夏の盛りであっても、徒歩で役所まで辿り着かねばならなかった。巨大な、全裸の父を従えて。
さて道中。奇異の目で見られるのではあるまいか、治安維持のため通報されるのではあるまいか、そういった懸念ははじめからあって、このように聞かれたならこう答えるべしと二人であらかじて取り決めていた(いくら意地の悪い話でも、思い付きでどうとでもなりうるのだから、そうするほかないことにさせられた)。けれども、ここらへんに住んでいるのはみな老人か子供だけだった。そして老人たちはただ流れるだけ、子供たちは家でビデオゲームをプレイしているだけ。だから心配には及ばない。そのことにア兵が気付いたのは、家から二十分ほど歩いて、見つけた自動販売機でスポーツドリンクを二本買った直後のことだった。
その間の父はといえば、その巨体ゆえの大股が相応の移動速度を生ぜしめるせいで、自然に歩けば二人を置いて行くところ、内定者が一人で歩いているのがまずいということは理解しているようで、ところどころにある木陰で歩いたうえに休んでは、二人が追い付くのを待つ様子であった。陰を作っているのは柑橘(たぶん柚子)、梅の木、それから山茶花で、必ずその順にサイクルを回している。柚子はちょうど実をつけたころで、父はそこからさまざまな概念を聞いた。言い換えれば勝手にもぎとって食べた。果実ごとにこの後期資本主義にかんする悲観論だったり都市間水流の動力学に関する最新の研究成果だったりアンケートをともなう社会調査において注意すべき事柄だったりが流れ込んでくるわけで、だいたいにおいて酸っぱそうな顔をしているのがその間の父であった(ならやめろよと言いたいところである)。梅の木と山茶花に関して特筆すべきところはない。
一方ア兵と藤十郎の二人はどのようであったか。両足で歩くことのほかに生じた現象はおおむね会話に限られた。「旧交を温めていた」と要約して構わないだろう。もちろん各々の近況についてはかの洋食屋ですでに交換が済んでいた。けれど二人は小学校そして中学校を通しての同級生だ。共通の知人も相応におり、したがってそれらの近況についてならいくらでも話せる。といって、ア兵のほうはほとんどなにかを知る状況にないのだから、藤十郎ばかりが情報を提供することになったのだけれども。
サン議は隣の都市で看護師をやっている。ギジョウはどこにいるか知らないけれど、親類は大物になったと吹聴している。英恵についても、どこでなにをしているか誰も知らないうえに、ギジョウのような手掛かりさえない。史ジマは自動車部品工場で働いており最近結婚したらしい。一方史ジマといつもつるんでいた布上は隣の都市の造船所で今は現場監督、たまに帰ってきては史ジマの配偶者を困らせているとのこと。それからニジュウは介護の仕事、夏ハバキも介護の仕事。岩本は教員をやっていて。そのほかア兵には顔の思い出せない数人はやはり介護の仕事をしているとのことだった。しかる後に「お前もどこでなにしてるか誰も知らねえ奴のひとりだったんだけどな。今や実家にいることはわかってもなにをしてるかは相変わらずわかんねえ奴ってわけだ。なんでまた帰ってきたんだ?」と藤十郎は締めくくった(わざわざそこに触れないようにしてたのに)。
「まあ、街を出た理由ってのがなんだかよくわかんなくなっちゃったんだよね。そもそも、出ること自体が目的みたいなところあったし」
「なにをやりたかったとかそういうんじゃなく?」
「そういうんじゃなく。っていうか、傍から見ててそんな感じしなかった?」
「どうだろうな、別にそんな、お前と仲良かったわけでもないし」
たしかにそうだった(焦がれているうちは、当然、仲良くしたいものだと考えていた。けれど、そう考えればそう考えるほど遠ざかっていくのもやはり道理というものだ。もちろんこうして久方ぶりの帰省にあたり問題なく交際できる程度に親しかったには違いない。けれど、そもそも小中のクラスメイトというもの自体が少ないのだ)。黙るア兵に、藤十郎は「そもそもだよ、なんでまたそんなに出たかったんだ?」と重ねた。
「いや、それさっきも言ったとおりで。よくわかんなくなっちゃったんだって」
「でも当時はあったんだろ?」
「どうだろう。というかそれで思い出したことがあるんだけど」そう言ってア兵はずいぶん向こうの山茶花の木陰で休んでいる父を眺め、それから藤十郎に向き直った。
ア兵が昔、この宇宙の成り立ちについて父に尋ねたときのことだ。この都市を作ったのは、ほかでもない自分なのだと父は言った。この都市を作ったのは自分だ。自分がこんなふうな都市があってほしいものだと考えたから、このような都市ができた。そして、お前は子供だからまだ知らないが、この宇宙のすべての都市はそのようにして作られたのだ。もちろんその多くはずいぶんと昔からある。起源が忘れ去られたものやそもそも消去されるように作られたものだってある。新しく都市を作るのはそれなりに面倒だ。大雑把に言って無駄に行き来の手間を増やすことでしかない。土地が足りないのであれば、外廓を広げるほうがずっと容易い。誰かが褒めてくれるような尊い行いなんかじゃない。いや、もっとひどいことに、一度作ってしまえばその造物主は一生その都市の面倒を見なければならない。誰かに強制されるわけではないし、実際のところ、造物主が死んでも都市は続く。だけど、それはそれとして、身体のどこかから道義的責任みたいなのが湧いてきちまうもんなんだよなあ。しかるにこの都市に対する自分の責任もそれだ。自分はとうに飽いている。別の都市で出会った人間を配偶者に持つような自分ではあるが、それでもここを離れることはできない。してはいけないことのように考えてしまう。誰にもなにも言われてないってのに——だけどお前はそういうのはもうどうでもいいんだから、ここに居残ることもないんだよ、云々。
「大法螺じゃねえか」と藤十郎。
たしかに、ア兵がその後中学の理科の時間に教わった内容とは食い違う。けれどもあらゆる法螺にはそれぞれ一片の真実があるものだ。父はこの街に居たくもなんともなく、その一方でこの都市を出るわけにはいかないとも考えている。それこそがこの話の真実にあたるのだろうとア兵は言った(つまり誤魔化したのだが、当時はそう考えたこともまた事実だった)。
「で、自分が出てやろうって、そう考えたわけか」
「まあ、そんなところだったと思う。ただ、少なくとも、父さんのためだとかそういうつもりじゃなかった」
「じゃあ逆に、父ちゃんみたいになりたくねえ、とか?」
「さっきも言ったとおり、今となってはわからない。けど、もしかするとそうだったのかも。たしかにこの頃から、自分はいつか、なるべく早く、この街を出るべきだと思うようになった——気がする」
「ふうん。……しっかし喉乾いたな」自分から尋ねておいて、心底興味がないといったふうの藤十郎であった(それは好ましいと、すこしだけ思った)。
それが自動販売機でスポーツドリンクを購うまでのいきさつで、ようやく道の半分というところだった。ア兵の実家から坂を下り、すこし広めの道路——といって、このあたりではあまりない二車線道路という程度のものではあるのだが——沿いにいくらか歩いたその先の個人商店(昔々、店先に一台だけ置かれていた格闘ゲームの筐体は、いつの間にか撤去されていた)の店先の自動販売機の前。そのまま道なりに歩いていけば役所に着くは着くのだが、丘を超えて川の蛇行に沿う道であるため遠回りとなってしまう。そこで道を外れて用水路——老人たちが涙を満たし溶け込み移動する用水路(老人が流れるってそういうことか)——に沿う小径を二人は歩く。
(誰かと会った?)
会った。ついに会った。子供が二人に老人が一人だ。
まずは二人の子供について。小径をしばらく行けば、当世には珍しくもビデオゲームをプレイせず、この炎天下を駆けずり回る子供が二人。小学生というには少々丈が足りないが、服装については中高生と変わらない様子である(今どきは幼稚園児保育園児でもこのように大人びているものなのだろう)。先を歩いていたのは既述のとおり父であったから、この一行で最初に目を付けられたのもやはり父だった。
子供たちが声を上げた。
「でかいおっさんだ」
「でかいおっさんだね」
父に声をかけたというわけではない。ただ、聞こえてもよいとは考えているらしかった(服装だけでなく、実際に物怖じをしないということなのだろう)。
子供たちが声を上げた。
「ちんこもでかい」
「ちんこもでかいね」
藤十郎が反論した。
「そもそも身体がでけえんだよ」
(父が全裸で生活するようになって数日、なるべく考えないようにしていたのに、そうやってあからさまに言われてしまうと、どうしたって父の姿を描写されざるをえないのだろう。それにしても、初恋の人の前で下ネタを言われるのはいまだにやっぱり恥ずかしい)普段から衣服を着用している人間からすれば、最初に目につくのはたしかにその陰茎であろう。ア兵はけっして陰茎に親しんでいるとは言えないが、藤十郎の言うとおり、身体全体に対する割合としては、取り立てて大きくも小さくも見えなかった。ただ、これだけ暑いのだ。多少は伸びているのかもしれない(寒いと収縮するのだということは知っている)。そしてその陰茎一帯は、それなりに密度の濃い陰毛に覆われている。こうした様子が腰の中央に見えたが、そこから下に伸びる脚はひょろりとしていてあまり健康そうには思われない。腿から脛へかけての体毛は、一見して陰毛と同様にふさふさとした印象を受ける。ただ、それは青白くて細い脚との対比でそう見えるというだけのことだ。では上半身はどうか。背はやや丸まっている。もとからア兵よりも背が高いのだが(小柄な家系なのだ)、十全に生きているあいだはその猫背のおかげで、隣に立てば同じくらいに見えていた。今はもちろん、その数倍は大きい。腹はやや出ていて、臍のまわりにも太くてごわごわとした毛が生えている一方、胸や腕の毛は薄い。胸や腕そのものも、それに合わせてか、脚ほどには不健康そうには見えなかった。こうして改めて検分してみれば、臍のあたりで別の人間を接合したように見えなくもなかった。
ア兵が顔を描写しようした矢先、二人がまた声をあげた。こんどはこちらに。
「で、あんたらはなにしてんの?」
「おっさんの見張り?」
藤十郎は答えた。
「だいたいそんなもんだ。あいつと一緒にな」
そう言ってア兵のほうを向いた。
その間父は子供がいることもとくに気にしていないというふうで(というか、歩きはじめてから、木陰とその果実のほかに興味を持った様子はなかったはずだ)、ア兵から見えない側の尻をぼりぼりと掻いていた(さすがにムカついたが、今更ではあるか)。
「君らはゲームやんないの? ほら、あの、みんなやってる」
ア兵が言うと(極力友好的に聞こえるよう努めた)、二人は突然気分を害されたように「あんなものやんないよ」「馬鹿じゃん、なー、塗りたくって」と宣い、それから「俺らくらいだよ馬鹿じゃないのは」「おかげででかいおっさんも見られたわけだし」「自慢してやろう」「でもあの馬鹿どもが信じると思う?」「写真撮っといたほうがいいかも」などとスマートフォンを取り出す。ア兵はそれを見て、「ちょっと、ちょっと待って」と走り出した(全裸の巨大な父の姿をこうして残されるのは、たぶんきっと、なにかまずくはないか?)。
結局「んな汚ねえもん撮るのやめときな」と凄んだ藤十郎の圧力に押される形で子供たちは散って行ったのだが、ア兵が父を改めて見やったとき、父はどこか残念そうな顔をしていた(気のせいだということにしておいてほしい)。気のせいだったかもしれない。
そのあと二人は無言で、しばらく歩いた。そのうち、「父ちゃんのこと、汚ねえとか言って悪かったな」と藤十郎が謝罪の弁を口にした。言葉が汚くはあっても、こうやって気遣いのできることが藤十郎の美点だ(同意する)。面倒見が良いという印象はそういったところから来ていたのだろう。
「いいけど。でも、あんたはさ」とア兵。
「ん?」と藤十郎。
「人に……あんまり人に興味ないよね」
「なんだよ急に」
(興味がないから取り繕うこともないし、親切を分け与えるのにも衒いがないんだろう)
「……そもそも、普通どのくらい興味があるものなのかもよくわかんねえし」と藤十郎。
「それはそうだけど」とア兵。
「でもまあ、どっちかってえと興味あるほうだと思ってるかもな、自分では」
話す二人のその先では、父が用水路に足を浸けていた(暑さばかりは父にもどうにもならないらしかった)。尋常の大きさの人間であれば腰まで浸かってしまう深さで、本来なら歩くのもままならないはずだが、もちろん現在の父にとってはそうではない。眺めながら、ア兵は「あれ覚えてる?」と尋ねた(だしぬけに聞こえてしまったかもしれない)。「あのとき、先週行ったあそこに、小学生のとき、はじめ二人で行ったときに、あのときに言ってたこと」
「また急だな」
「いや、つながってるよ」
「まあ、覚えてないけどさ」
「狂ってるって」
「は?」
「狂ってるって言ってたよ、この街だかこの宇宙だかが」
「……は?」
「どうせ狂ってるんだからどうでもいいって思ってるんじゃない?」
しばらく見詰め合う二人。
「……いや小学生のころの話だろそれ」
「そうだけど」
「恥ずいだけだって」
「でもそれを思い出したから私は——」
と、そこで二人の耳に「ブラボー!」という声が飛び込んできた。「ブラボー!」「おめでとう!」「コングラッチュレーション!」その程度しかア兵には聞きとれなかったのだが、それ以外にもさまざまな都市の言葉で、めでたいらしき言葉が次々に投げかけられていた。用水路を刺激したせいだろう、気が付けば、数え切れないくらいたくさんの老人が、そこらへんにいた。
(「老人が一人」だったんじゃないの?)
老人(たち)が一人いた。老人(たち)は父の行為に賞賛を送っているらしかった。なんとなれば、父は用水路のアカミミガメを重ねまくっていた(ふと、外来種だなと思った)。あの巨大になりきった指でどうやってこんな繊細な作業ができるのかは不明であるが、いつの間にか父の膝の上あたりまでアカミミガメが重なっていた。「あんたは昔から器用だったからねえ」と老人(たち)が父に言う。老人(たち)は父を知っているらしかった。
あんたは昔から器用だったねえ。そうか、わし(ら)より先にお迎えが来ちまったのか。羨ましいことだよ。それに賢かったからなあ。この都市でなら、隣に通じるための枕木に竹を使うのがいいって提案したのはあんただって聞いてるよ。さすがに大学に行っただけはある。おかげであの隧道を通るのがずいぶん速くなって、便利になったからねえ(そのような武勇伝があるとは知らなかった。子供のころに、新しくできるという高基線の工事に出ていたことは知っていたけれど、そんな横紙を破ったなんてのは初耳だ。どこか遠い都市のお偉いさんが考えたのをそのままやるのが仕事じゃなかったんだろうか)。
そして老人(たち)はかなり急速にその首をア兵に向け(突然気味の悪い動きをしないでほしい)、「この都市に精を穿ったのはあんたのお父さんさ」と言った。ア兵は「そうですか」と答え、それから謝意とともに、その場を離れる意思を示した。老人(たち)はそれに応え、涙もろとも用水路に流れていった(どこかでまた涙を塗すのだろうか)。
老人たちを見送り歩くうちに、自動車の通りも多くなってきた。家屋の合間に、自動車用品店がいくつかと、この街ではまだ珍しいコンビニエンスストア、家電量販店が並ぶ。一度別れた二車線道路と合流するあたりまで来ると、藤十郎が口を開いた(話の腰を折られたせいで気まずくて、しばらく無言だった)、「あんたの父ちゃん、偉かったんだね」。「知らなかった」とア兵は言った。「というか、信じるべきなの? これ」と続けた。「だって父さんはあの隧道の開通をずっと呪ってたのに」。藤十郎はしばらく思案した後、「まあ、そういうもんだよ」と言った。
そうして二人は(ついに、ようやく)役所に辿り着いた。威容を誇る我らが役所。
さっそくエントランスに入りたいと気が逸るのだが(暑いし)、まずもって父の処遇が問題として浮上する。尋常の人間のために作られた回転扉をくぐるのが不可能なことはア兵にもわかった(膨らむ場合の指南が手引になかったせいですっかり失念していた)。「とりあえず置いて行くしかなさそうだな」と藤十郎が言う。ア兵はうなずくが、とはいえあまり人目につくところには置いておきたくはない(なにしろ全裸だし)。しばらく周囲を物色した後、二人は裏手の職員専用駐車場へと父を誘導した。そして、そこで待つよう父に言い含めた(ようやく父と離れられた)。相変わらず従順な父だった。
改めて、威容を誇る我らが役所。「こんなに立派だったっけ」とア兵は呟いた。陽光をきらめかせる窓ガラス(夜には街灯がその役割を果たすんだろう)と経年で黒ずんだコンクリートの対比が際立つファサードは、物理的には先日住民票を移しに来たときとまったく変わらない(それなのに、これと比べれば先日の役所はプラスチック製だったんじゃないかという気さえする)。空調の音と思しき低いうなりが響いているのも同じなら、庇にぶら下がるツバメたちの巣も同じだ(知ってる、この鳥類は独自の方法で都市を渡ることで知られている)。ア兵が「こないだ来たときはこんなふうじゃなかったと思うんだけど」と続けると、藤十郎は「気のせいじゃねえの?」と応じた(まあ、そうかもしれない。あるいは精神に直接作用してくるような真似をされる恐れもないとはいえないが)。「そんなことより、暑いしさっさと入ろうぜ」という声に促され、同感だったア兵は回転扉をくぐった。
手引には、なにはともあれまずはインフォメーションに聞けと書かれていた。なので、ア兵はそれに従った。
「あの、死亡内定の件で来たんですが」
「このたびはご愁傷様です。死亡内定でしたら、まずは三階の五番窓口ですね。エレベーターはあちらです。そこで必要書類の確認を行います。内容に応じて別途手続が必要になってきますので、あとはそちらの職員の指示に従ってください」
「ありがとうございます」、これはア兵。「あざーす」、これは藤十郎。
二人はエレベーターに乗った。三階はこの役所の最上階だ。戸籍関連の手続きはすべて三階ということらしかった(であれば手引にはじめから三階、ないしは戸籍関連の窓口であることを書いておくべきではなかろうか)。いや、それは違う。何事にも順序というものがあって、ぶしつけに窓口へ向かったのでは礼を失してしまうものだ。手順こそが肝要なのだ。先日住民票を移した際、ア兵は直接窓口へ向かったというが(インフォメーションに問い合わせるまでもなく、窓口が目の前にあったのだから、それはそうだろう)、そういうのはよろしくない。有職なれども故実なし(ありうとすれば父にのみってか)。あからさまに白い目で見てくるような者は居らずとも、心の中ではどう感じていたかわかったものではない——三階に着いた。
エレベーターを降りた二人の目前には窓口がずらりとしていた。役所の外観に比せば三倍ほどの差し渡しで(手続をしている街の人間の数に比してちょっと多すぎる気はする)、それ自体壮観と言って差し支えないのだけれど、さらに目を引いたのは窓口の背後、職員がひしめくオフィスエリアの中央に聳える大きなマシンだ。上背は(やはり外観に比して三倍はあろうかという)天井にまで至り、五人がかりでさえ抱えきること能わぬ胴周りはいかにも不養生、無作為に繋がれたケーブルに延命された、それはとにかくなんらかの機械であって、悪夢に魘される象の唸りを発するうえに、人間の背丈よりも高い位置にはプリンタらしき装置が装着されて、職員たちの頭上に止め処なく紙を撒き散らしていた(膨れた父がこんなに騒がしくなくて良かった)。
この街の人間の死期を計算する巨大計算機が役所に鎮座ましますことは、この街で育った人間にとって常識の範疇である。なんとなれば、人口の増減を把握することは役所にとっての至上命題の一つであるからだ。転入および転出にはほかの都市と彼氏彼女の事情が絡むためいかんともしがたいが、出生と死亡であればいずれもこの街のみで完結する。前者にあっては妊娠期を経るため予定が掴みやすく、後者にあってはこの巨大計算機が存立する。「はじめて見たな」とはア兵、「観光パンフレットにも見開きで載ってるぞ」とは藤十郎。それからア兵が「……いまどきならクラウドとか」とつぶやくと、「雲? 雲がどうした?」と藤十郎が答える。
そういえば藤十郎は英語が得意であった。中学生のころの思い出だ。つまり、ア兵はもはや藤十郎に特別な感情を持たなくなっていたころ、とくに下心もなかったころの思い出だ。ア兵が苦手だった英語を教えてもらおうとしたその日、場所は中学校の図書室だった(教室で勉強なんて、また囃し立てられるだけだ)。時制と相のなんたるかがイメージできなかったア兵は、藤十郎に教えを乞いた(ノートにちょっとした図を描いて見せる藤十郎の横顔は、げんに特別ではなく、いつかむかしに特別であった様子を縁取っていた)。藤十郎から時制と相に関する通り一片の説明を聞いたあとのことだ。そんなに英語が得意なら、いつか、どこかのいい大学に行って、たとえば遠方の都市に留学でもするものだろうか。そんなふうに尋ねたことがあった。「そんな余裕あるわけねえだろ」という藤十郎からの返答を耳にしたことがあった。そのころのア兵は、いまどきの子供ならみな大学に行くものだと漠然と感じていた。当然そんなわけはないことくらい頭ではわかっていた。けれど、はっきり意識したことがなかった。藤十郎の境遇を、どこか残念なことのように思った(思っただけだった)。残念なことのように思うことじたいが残念なことなのではないか(そうだろうな)。
それからア兵は隣の都市の高校の入学試験を受け、一を超えない倍率を通り、寮に住んで、いつしか藤十郎のことはもう忘れて、いつしか英語はどうにかなって、それから都にある大学の入学試験を受け、街を出てから一度も会わない父から金を貰って、大学に通った(どこかで似た話を聞いた気がする。恩着せがましいとはこのことか)。
(それにしても、クラウドがどうこうって、英語が得意とかそういう話じゃなくない?)
そうかもしれない。「で、たしか五番窓口って言ってたよな」と藤十郎が促すので、ア兵は窓口に掲示された番号たちを見渡した。三十メートルほど先、たしかに五番窓口が六つくらいあるようだった。うち三つは応対中と見えたから、二人は四つ目の職員に声をかけた。なお、その手前、出産や結婚に関する窓口に用のある人間はひとりもおらず、つまりこの広々としたフロアに現在用事のある街の人間は死を予定された四組のみということになるらしかった。それでも窓口の職員はみな、市民の来訪を辛抱強く待ち受けていた(いや、辛抱もなにも、なにも感じていないふうにも思えた。マシンから吐き出される紙に狂騒する職員との対比のせいで、蝋人形のようだと思った)。以下、窓口での会話。
「死亡内定の件で来たんですが」
「このたびはご愁傷様です。それでは、通知書をいただけますか」
ア兵は用意していた通知書をポケットから取り出し、渡した。「もうちょっと大事にしとけよ」という藤十郎の呟きがア兵の耳に届いた。
皺だらけになった通知書を窓口のあちら側でごしごしと延ばしながら、職員は「ありがとうございます」と答えた(自分で動ける程度の細工が施された、やはり蝋人形のように見えた)。それから「ええと、あなたが後見人で、そちらの方が証人ということでよろしかったでしょうか」と続けた。
「はい」とア兵。
「ああ」と藤十郎。
「と。ええと、内定者の方はどちらでしょう?」そう言ってア兵の顔から目をそらして下へ。ア兵の周囲に鞄かなにかを探していた。鞄にでも入れていると思ったらしかった。
「ああと、外にいます、ええと」
「外?」
「いや、膨らんでて」
「ああ」
はじめて職員が表情を変えた。これは良い感情の表出でないと判断するしかない様子だった(でも、蝋人形と比べれば、それはそれはほっとするものだ)。
「だから、連れて……こられなくて」ア兵は微笑んだ。困ったらまず笑う、ア兵の癖だった(微笑むつもりはなかったんだ、違うんだ、という気持ちで、藤十郎のほうをすこしだけ向いた)。
「そうですね。はい、ええと、すみません。でしたらちょっと手続が変わってしまうんです。申し訳ありませんが」
それから職員は駐人の手続について長々と述べた。どの窓口に行くべきか、実際にどのような手続を行うか、それにはどのような法的根拠もしくは実際上の理由があるのか、等々。驚くべきことに一度も息をつぐことなく、職員は説明を遂行しきった。この職員にとっての、一世一代の大仕事だ。終えてみれば見栄を切った姿勢と目付きで、背後に控える職員たちもいつしか静まり返り、かの職員のために柏手を打たんとしていた。機械が吐き出す紙々はひどく大きく膨れた紙吹雪のように見えた。あるいは雪だろうか。
父は冬になるたび、その季節の最初の雪の日になるたび言っていた。この街に雪が降るとは思ってもいなかったのだと。この街ではもともと雪が降らなかった。雪の降る様子を目にしたいと、夢にまで見るほどだった(そのつぶさな様子はべつの街で生まれた母に聞いたらしかった)。それがいまや、冬になればこのように。高基線の建設による変化のなかで、唯一喜ばしい影響だと父は言っていた。それからはいつも通りの、過去を思い出しての愚痴が続くのだが。
(けれど、それを作ったのはほかでもない父自身だった)
指示された一階の窓口へと向かうエレベーターの中で、「思ったより時間かかりそうだな」と藤十郎が話しかけてきた。
「ごめん」
「いや、普通の証人じゃこういうことにはならねえんだろ。珍しいのはいいことだ」
「……楽しんでる?」
「悪いけど、そうかもな」
それからエレベーターが到着した(自分はどうだろうか。聞かれれば、さっさと終わらせたいと答えただろう。けれど藤十郎は尋ねてこなかった。どうだろうか。ほんとうに父と早く別れたいのだろうか)。
新たな窓口。どこから話すか迷った末の「ええと、膨らんでいて」との要領を得なさに、職員のほうは慣れているらしく「ああ、駐人ですね」と答えた。
「です、です」
「でしたら、こちらに駐人予定日および時間、それとあなたの住所と氏名を記入してください」そう言って職員は度重なるコピーで罫線がぎざぎざになった申請用紙を取り出した。
「あ、いえ、もう今連れてきてて」
「え、今ですか?」
「裏にいるんですけど」
「え、もういるんですか?」
「……まずかったですかね」
応対した職員はしばらく考え込む素振りを見せたあと、「少々お待ちください」と後ろの上司らしき職員のもとに駆け寄った。ア兵の側からは職員たちの会話を聞きとれない。けれど、応対した部下の報告に、上司のほうは不機嫌を隠せない様子が見てとれた。一方の部下はどちらかといえば市民の味方をしているふうに見えた。つまり、例外対応に関する役所的葛藤を市民に見せつける芝居というわけで、実際しばらくして上司が窓口に戻り言うことには、例外的ではあるが仕方がないから許可するとの由。しかし、今後はもし膨れているのであれば先んじて関係各所に連絡をしてからにしてほしいとも言い添えた。
その間に準備を済ませたらしき部下が、ア兵の気付かぬうちに横に立ち、これから駐車場に確認しに行きますので、と言った(耳元で!)。職員は五メートルほど先を歩き、二人はそれに着いて行った。道中「仕方ねえだろ初めてなんだから」と小声で不満を漏らす藤十郎を宥めた(しかし、なぜ自分は役人の味方をしているのか。芝居だからといって愉快なわけもない。どうにかなるだろうと思っていた自分の甘さを負い目に感じたのか。とはいえこうして実際どうにかなっているのだし——)。
(と、そういうことにしておく、わけだ)
駐車場に放置していた父は大人しいもので、相変わらず役所の建物の陰に座り込んでいた(ただ、役所に入る前と比べても目に見えて膨らんでいた。もしもずっと放置していたら、光速を超えて膨張するようになるのかもしれない)。職員は父に向かい、「それではこれから手続を始めますね」と述べた。反応がない様子であった。改めてア兵を向き、「始めますね」と言い直した。手続の次第は次の通りであった。
まず職員がインスタントカメラで父を撮影する。全身が写っていなければまずいとのことで、職員は父に立ち上がるように促すのだが、相変わらず反応がなかったため、ア兵にのほうから伝えてほしいと依頼した。ア兵がその旨父に言葉にしてみれば、たしかに父は立ち上がった(このときはじめて気が付いたことに、父は子の言葉にしか反応しなくなっていたらしい)。そうしてようやく職員がぱしゃりとやった。インスタントカメラから写真が吐き出されるのを待つ間、職員は父にシールを貼り付けた。「来館者」という文言が中央に座し、両脇にはこの街のキャラクターらしいフクロウのような(けれどもフクロウではぜったいにない)鳥が笑っている。それから職員は出てきた写真を申請書の裏面に貼り付けた。どうやら、表面が予約、裏面が当日の手続に使われているらしかった。最後は各人の署名である。三階の窓口で聞いたとおり、駐人の対象が内定者である場合は証人の署名も必要だ。すなわち、職員、ア兵、それから藤十郎である。まず職員が署名した後、藤十郎にクリップボードが渡された。藤十郎はボールペンを走らせた。
ちょうどそのとき、自動車がやってきた(そういえばここは駐車場だった)。父がいるのとは反対側の端に自動車が停められた。署名を済ませた藤十郎は、「はいよ」と言ってア兵にクリップボードを渡した。自動車のエンジンが止められ、職員が降りてきた(そういう音がした。クリップボードを見ていたから、実際には目にしていない)。ア兵もボールペンを走らせた。職員にクリップボードを返そうとすると、その職員はア兵の向こうの誰かに笑いながら手を振っていた。自動車から降りてきた職員に対してであるに違いなかった。職員はクリップボードを差し出すア兵に気付き、慌ててそれを受け取った。「あとはこれを守衛室にお持ちください。階段で地階に降りてもらえればすぐですので」職員はそう言ってクリップボードから申請書を外し、紙を押しつけるようにしてア兵とすれ違った(自動車から降りてきた職員に向かって歩いているのだろう)。
職員たちに興味のあることを悟られるのを避けるように、ア兵は職員たちとは逆方向に回って、再び役所に入った(従って、また父と別れた)。
黙って付いてきていた藤十郎が、地階に向かう階段でこんなことを言った。
「あれは付き合ってるな」
なんのことかわからず、そのようにア兵が返すと、「さっき駐車場にいた奴らだよ、ほら」と藤十郎が答えた。
「なにそれ」とア兵(振り返らなかったことが後悔されるような気がしてくるが、まだ後悔と呼べるほどには育っていない)。
「なんとなくさ、そういうのわかるんだよ」
「へえ」
「で、だいたい当たる」
藤十郎はなぜか嬉しそうだった。それから藤十郎は共通の知人の名前をペアにしていくつか挙げていった(どれも、そんな関係にあったとは知らない組み合わせだった。とはいえ信じる理由もないんだけど)。ア兵は「ほんとだ、すごい」と応じた。藤十郎はさらに嬉しそうだ(人に興味がないのは自分のほうなのかもしれない)。
そうやって話しながら(ずいぶん打ち解けてきたものだ)、地階の守衛に申請書を渡して判をもらい、降りるときの倍の段数はあろうかという階段を上って、二人は地上へと戻った。それからまたエレベーター、また五番窓口だ。
三階では相変わらず機械が唸り、コピー用紙が舞っていた。五番窓口の職員は先ほどと違っていたけれど、適切な引き継ぎがなされていたと見え、申請書を渡した代わりの職員は「ああ、内定者さんが膨らんでいるとおっしゃっていた方ですね」と澄ました。先ほどの職員は一世一代の仕事を終え、今や機械に向かってなにかを打ち込んでいるらしかった。窓口の職員曰く、「では、改めてこちら、太枠内にご記入ください。まずは後見人の方と、お手数ですが証人の方もお願いします」。住所、氏名、誕生日、および内定者との続柄のほか、いくつかの注意事項が小さな文字で並んでおり、それぞれに確認した旨のチェックを入れる必要がある(ようやく手引で予習済みであった箇所が出てきて嬉しかった)。
記憶の中の注意事項と照らし合わせ、たしかに同じであることを確認したうえで、すべてにチェックを入れた。続いては藤十郎の番であるが、証人については注意事項の確認は不要なようで、住所、氏名、誕生日、そしてア兵との続柄を記入せよと示されていた(しかし続柄とは?)。藤十郎もどうしたものかと考えたらしく、続柄について尋ねた。「形式的なものなので、なんでも構いませんよ」とのこと。
なぜか思案しだした藤十郎に、ア兵は言う。「友人、でいいんじゃない」。それから藤十郎は記入するのだが、その文字列は次のとおりであった。
初恋の人。
「え、なにそれ」
「いや、そうなんだろ」
「なんで知ってんの……じゃない、いや、そういうことを書くとこじゃないでしょ」
そうは言ったものの、職員が問題視する様子もなく、代わりに次のように尋ねた。
「すみません。こちら、証人の方の初恋の相手が後見人様ということですか?」
「あ、逆っす。こいつの初恋が、自分で」
「承知しました」と職員が書類をひっこめた。それからあの機械に差し込みに向かった。「そういうのわかるんだよ」と笑う藤十郎にア兵はしばらく言葉が返せなかった。
しばらくして戻ってきた職員が「承認されました」と拘留許可証を持ってきた。ア兵は無言で受け取った。
「それと、こちらが拘留所の地図です」
ア兵は無言で受け取った。
「本日中に内定者様をお連れいただければ、ポイントが十倍ですので」
ア兵は無言で頷いた。
藤十郎は相変わらずにこにこしていた。
二人が役所から出ると、先ほどはなかったはずの巨大な銅像が目の前に聳えていた。全裸の男性を象った銅像は臍の高さにぐるりと溶接跡を残し、いつのまにか傾いていた太陽が陰茎の裏できらめいて、逆光をかたちづくっていた(どんな感想を言えっていうんだ)。ア兵はそれも無視し、裏の駐車場で父と対面した。
そしてア兵は考える。
(さすがにやりすぎ)
いったいどうしたというのか。理解できないが、いずれにせよこの期に及んで父が受け答えすることなどできはしない。父が発語することは二度となく、拘留所に連行され、死亡すると定められている。それにしても、どうして今になって——
(え、わかんないの?)
藤十郎のこと——と、間髪入れず、ア兵は今度は声に出し、「連れて行かなかったらどうする?」(そんなことができるわけもないのはわかっているのに、止められない)、と問い掛けるも、やはり父はなにも答えない(これだけ饒舌なのに)。(父の勝手は子までにしておけばいいものを)そんなことはできないと知っている藤十郎が「いいから、そろそろ行こうぜ」と言い、それから歩き出す。だから、そんなことはできないと知っているア兵はそれに続き、そのあとにそんなことはできないと知っている父。
「行きたかった——少なくとも、行ってもいいって思ってたんだろ?」と藤十郎。
「それは、そうだったんだけど」とア兵。
「しかも、初恋の人と」と藤十郎。
「それは——」
(それは、父が決めたことだ。自分勝手に死ぬことを決めて、その埋め合わせにでもしてやろうとでもいうふうに、父が決めたことだ)
「お前にとってはどうか知らないけどさ」と藤十郎。
「私にとっては悪くない」これも藤十郎。
それはよかった、とア兵は考える(嘘じゃない)。実に、そのように、悪くない、まったくもっての悪くなさのうちにこの都市を作りつづけてきたのがア兵の父であった(ようやくそのことが骨身に沁みた)。そして、ア兵にとっても悪くないことだった(否定できないのだ)。藤十郎がア兵を誘った理由を知っていることだって、まったく悪くないことだった(否定できないのだった)。
(けれど、悪くなくて、ほんとうに良かったのだろうか?)
もちろん、そんなことに拘らって歩みを止めるア兵ではない(良かったのだろうか?)。ア兵だって、父のことを嫌っていたわけではないのだ(否定できない)。だから、父が死に向かいたいというのであれば、それを止めようとも思わなかった(否定できない)。三人は今や、軽やかなステップを踏みながら進む。
(だから、悪いとは言ってないんだって)
だいたい、死んでどうなるというものでもない。そう、死んだところで、ア兵が消え去るわけでもない。藤十郎が消え去るわけでもない。あの書店も洋食屋もそうだ。役所だってそうだ。老人も子供もみんな残る。(このぐずぐずになった)街が父の手から離れるというだけのことだ。ぐずぐずなんかじゃない。なんたって、三人の行きあたった公園では、健全な子供たちが健全にキャッチボールに興じている(子供たちはみなビデオゲームに興じているはずじゃなかった?)。老人(たち)が突如現れ(カラフルな涙が公園の遊具に塗りたくられていた)、そろそろ帰る時間だと子供らに声をかけまくる。
(ぐずぐずじゃん)
——わかった、認めよう。ぐずぐず、かもしれない。だからこそ、父に死亡内定書が届いた(届かせた)。もちろん引き継がせようなどと、そんな気持ちがあるはずもない(それはわかってる)。そんなことをされてもごめんだと考えるよう(たしかにごめんだ)、父がア兵をつくったからだ。実際その通りになってくれた(気持ち悪)。
それでも、きっと自分から離れていってほしいと願うのは、父としてごくありふれた想いではなかろうか。
(そして、それでも最期くらいはと願うのも、そうだって?)
そういうことだ。
(勝手だなあ)
そうかもしれなかった。「ほんと勝手だなあ」とア兵が呟く。父はなにも言わない。「まあ、終わったら飲みに行こうぜ」と藤十郎が請け合う。三人は拘留所に辿り着く。勝手なことかもしれなかった。コンクリート造の灰色の建物、周囲に小ぢんまりした緑地、鰯雲のこちらは赤く向こうは紺色で、止まったままの噴水が三人を指して本来とは逆の影をつくり、黒々と無関心なタイルを擦るア兵の靴が建物に踏み入ろうとしたそのとき、どこかに設えられたスピーカーからハウリングが響いて、なにか固いものがぶつかるような雑音に続き、罅割れた合唱曲が、
とーおきーやーまにー
ひーはおーちてー
(ずっとあとになって。わたしは初恋の人ともう一度出会うだろう。二人ともこの都市ともはや切り離されて。それはもちろん愛だの恋だのとは関係ない話で、だけどまあ、それはまたそのときに、父のいないときがもしあるなら、そのときに話せばいい)
ほーしはーそーらをー
ちーりーばーめるー
(ひとつだけ明かすなら、出会って話すことになる居酒屋の唐揚げの話をしてあげる。父の葬送を終えたあとに二人で飲みに行くことになる商店街の居酒屋、街中に響いていたからにはそこでも罅割れた歌声が響くのだろう、その居酒屋の唐揚げの味と似ている、ことになる。ピラフと唐揚げでつながったわたしたち)
きょーおのーわーざーをー
なーしーおーえーてー
(商店街の居酒屋よりもうすこし前。人だけでなく音だって吸い込まれるしくみが備わっていて、すり潰される様を高くから覗き込んだところで物音ひとつしない。その深さはやはり外観から想像できない代物で、この果てのなさが父のお気に入りの心象であると、わたしはようやく気付くのだろう)
こーころーかーろーくー
やーすーらーえーばー
(そこに父は身を投げる。なんの話かって、父が放り込まれる先——父が自らを投げ込む先——はゆっくりと横方向に回転するグラインダーのような機械で、喩えるならコーヒーミルに近いってこと。それから、母と混じり合うと信じてやること)
かーぜはーすーずしー
こーのゆーうべー
(もうすこし遡る。内には受付があって、そこで目合う一対に声をかけると、「小さくなったんならそこに並んでる籠、あれって床がフェルトみたいでそこに拘ってる職人がいて、ほんとにふかふかでいい感じらしいんだけど、ほんとならそこに入ってもらうところなんだけど、おっきくなってるならじかにあっち行ってもらわなきゃならないんだよね」と上に被さった一方が答えることだろう。そして他方が椅子に沈み込みながら「おっきくなってるなら、こっちにサインだけしておいてくれればいいから」と証明書を差し出したきりこちらを向かなくなるから、藤十郎と目配せあってわたしたちはサインする)
いーざやーたーのしー
まーどいーせーんー
(いますこし。膨れている人間が入ることができるものかと思うも束の間、もはやそんなことが障害になるわけもなく、普通に門自体がぐっと伸び、それから縮んで拘留所は父を迎え入れる)
まーどーいーせーんー
(だけどその前に終わりにしない? 限りなく近づいたってぜったいに辿り着かなくして、いっそこのあたりで、夜になっても暑そうだし、親孝行だから)