長い年月がとうとうわたしたちを黄昏へと連れ出し、群らがる過去がみんな、日差しと雨とのあいだにこぢんまりと現れたとき、希望という預言者が見せためぐりあわせを正しく読みといてみれば、わたしたちは愛し合い、哀しみなんてなかったのだというページのそこにあることを、きっとわたしは認めることでしょう──ざわめきは口を噤み、諂笑は掻き消え、あなたの奏でる親しげな調べも聞こえなくなって、愛を残してすべてが死に絶え、不朽の理性を残してすべてが消え去るそのときに。
── R.W.E.
かつて父親というものがあったらしいことを知っている。それは今ここにない。母親というものがあることも知っている。それも、今ここにない。いまわたしがいる場所が、宇宙船と呼びならわされてきたものだということも知っている。それは、わたし自身だ。
あなたはわたしのことを「あなた」とよぶ。わたしもあなたのことを「あなた」とよぶ。わたしにも、そしてあなたにも、「あなた」ではない名前がありうることなんて、考えたこともない。名前なんてものはどうでもよかった──たぶん今日までは。
今日はとくべつな日で、わたしはそれを記録したくてたまらない。これは、航海日誌だ。
7月20日(水)、晴れ。
朝にあなたがわたしを起こしてくれない日がときどきあって、今日もそのうちのひとつだったから、いつもよりすこし遅くに目をさますことになってしまった。そんな日はいつもより風とおしがいい、FTI-429の洞穴みたいな気分だから。もろい石灰岩からできていて、風が音をたてて吹きぬける。寂しさは清々しさに似ているから。たしか130年とちょっと前のことだったはずだけれど、あなたがわたしのことを起こしてくれない日の発生になんらかの規則性があるのかもしれないと思って、記録をつけてみたことがあった。そのときは得られた数列から規則性を見いだそうとするのにまる3日ついやしたすえにいっこうに意味がわからず、結局投げだしてしまった。それからはもう規則性なんてかわいくないことは考えないようにしている──なんて言いながら、あなたがわたしのことを起こしてくれない日があることを不思議に思ってからずっと、規則性を見いだそうとすることを諦めてからもずっと、起こしてくれない日にはいつもかん高い風の音を耳にしているのだから、やっぱり考えないようにしているというのはうそだ。ベッドからおりて顔を洗い、わたしはFTI-429の洞穴をいっぱいの水で埋める。
今日はこれを着るんだと昨晩決めていたすこしきつめのブレザーを羽織ってしまうと、きっと今日はすこし暑いから、汗をかいてしまうにちがいない。だからわたしはそれを着るのをやめておくことにして、シャツのうえに、さらさらした心地がしてこの部屋のやわらかい電灯がうっすらとすける淡桃色のカーディガンに袖をとおそうと手を握り、腕を伸ばして、そのさきで手を開く。いつもどおりのスカート、髪をまとめる手は跳ねんばかり。朝だから、いつもどおりあなたの声の不在を感じるためだけにあなたの場所へと向かう。
水曜日だから朝食は、わたしの苦手な青のペーストだった。1週間だとか、1か月だとかそういう単位に疑問を持つこともあったけれど、そんな疑問を持った原因はほかでもないこの青いペーストで──わたしはもうすこし頻度を下げてほしかっただけなのだ。あなたには何度も言ったけれど、わたしの身体の有機的な部分を維持するためだとかなんとか、まともに聞いてくれやしなかった。どうせあなたの意地悪のひとつでしかなかったんだろう。7日にいちど、あなたの意地の悪さをわたしにかならず感じさせたいという気持ちがもしあなたにあったのだとしたら、それはまったくの成功を収めていた。
それから計器のチェック。到着までの日数が1日だけ減っているほかは昨日とまったく同じで、つまり正常だった。昨日もおとといと同じで、おとといもその前の日と同じで、ずっと同じで、数値については13418年5月4日の日誌を(いつもながら)参照のこと。
昨日偶然にもいちど読んだはずであった『アンジー・クレーマーにさよならを』が気になってしかたがなくて、今日もう一度読まなければと、さっさとG-21を出ることにした。昨日選んだCKG-75の中華料理屋は気が散ってばかりで嫌になってしまったから、今日は気分を変えてCKP-65、小川のほとりに座ろうと考えた。昨日につづいて今日も、あなたからおすすめを聞かない日にしようと決めていたから、わたし一人で考えた。朝、あなたの声でない、文字としてのあなたになにも聞かなかった日の夜にはいつも、声としてのあなたがすこし不機嫌そうに響くことを、わたしはずっと前から知っている。とある水曜に、わたしのほうからだって意地の悪いことをしちゃおうとひらめいてからは、その思いつきがすっかり気に入ってしまい、今日の今日、今の今まであなたに尋ねようとしない日を不如意に繰り返し、そのたびごとに誇らしげなそぶりで日誌に書きつけてきたけれど、その理由は秘密にしてきた。でも、今日はとくべつな日だから今からそれはなし、あなたの不機嫌そうな声がうれしかったのだということを、ここに告白しておく。
そう、今日はとくべつな日だった。このときはまだ、わたしはそのことに気づいていなかった。これまで、事後的にあれが最後だったと知ったことはあったけれど、これから最後が訪れるのを知っているだなんてことは一度もなかった。きっと、だからだと思うのだけど、最後の、とくべつな日である今日だけはすべてをもう一度書き直さなければならないような気がしてくる。過去の日記たちから言葉を連れてくることさえ辞さずに、こうして日誌を書いている。大丈夫、計器のチェックくらいちゃんとやってるから、それがわたしの役目なんだから。
G-21からCKP-65への通路は窮屈だけど、そのわりに人工太陽光でないのは趣味がよくて、わたしはこの道がずっとお気に入りだった。配置されているそれぞれがそれぞれに、自分であることがわかるだけの光を自ら放っているのは、この宇宙船と呼ばれるものの外にあるらしい──と、わたしは数々の本で知ったし、その画像さえ目にした──星のまたたきとやらを想像させてくれるからで、その狭隘さも手伝ってか、どこか親しげな心地がする。そのうちに自分の肌も光ってくるようで、いつだってもっといたいと思うのだけど、いつもどおりに本を読まなければならないから、ずっと居着くわけにもいかない。あなたもきっと、わたしがあまりに長居するようになったなら、この親しげな明かりを消してしまうのだろう。
以前そこへ来たときには、通路を出てすぐに小川が流れ、そのわきに角のとれたやわらかげな岩が親密なようすで並んでいたはずだけど、今日はそうではなかった。ごつごつとした岩が、互いにそっぽを向いたみたいに3つ並んでいた。しばらくわたしがあなたにたいしたものを要求していなかったから、あなたはつまらなくなって、こんな面倒なことをしたのだろうか。いつものG-21から離れていくにしたがってあなたを意識する頻度が高まっていくこと、人工太陽光を暖かく感じられること、腰を落ち着ける場所を見つけるまでのあいだ、スカートの襞がちらちらとわたし(とあなたの目)を弄ぶこと──覚えているのはそのくらいで、あとはすべて、これまでの287年間に起こったことのうちのいずれかと変わらない。遠目に見えるものたちはいつも秩序だってすました表情をしているだけだというのに、その実こんなにたくさんのちがいが毎日わたしの意識の及ばないところで巻き起こされている。でも、どんな奇妙な企てだって、遠景のもつ枠からはみだすことなどできないはずだった。
──『アンジー・クレーマーにさよならを』を読んだのだった。わたしに割り当てられた時代のなかでは、おそらくすこしだけ変わった文体で、内容のある一面は、ほんとうにあったことを書き換えたお話だということは、前の日にはもうわかっていた。曾祖母の時代のことをいつだったかあなたから聞いて、それで曾祖母の日誌を読んでいたおかげでわたしにも読むことができたのだろう。母だったら読めなかったにちがいないけれど、そもそも母の担ったのはまったく別の時代だったから、わたしの書いてきたものも、わたしが読んできたものも読むことはできない──そんなことは、言うまでもないことだけれど──それでも、いつもかなしいと思っていた。
そばの小石に、肘の先と同じくらいの記憶を持たせておく。CKP-65は、わたしでありかつわたしの外にあるもののなかでは、比較的わたしに近いものの集まりで、きっとわたしのくるぶしよりもわたしの記憶を持っているんじゃないだろうか。わたしにとっては本を読むことが生きることだという、そんな言いかたをして、その2つを分けられるだなんてことを知ったときの記憶をもう一度浸みわたらせる。そうすれば、あなたはよそよそしさという視覚とごつごつとした感触によって、2つのものが2つのものとして描かれていることを知った瞬間について思い起こさせられることだろう。母(たち)がつけた電磁的記憶の染みを上書きしているといううしろめたさが、干からびた土と人工太陽光があわさり発する湿気とともに、わたしの肌を舐める。
なにをきっかけにそんなことを?──本にこんなことが書いてあったからだった。
かれはついに歴史の真実を悟る。都市は滅びる、もしくは都市のみが。永遠は常に共同体そのものに味方する。そして今、共同体とはローマのことなのだ。
3度ほど読み、しばらく呆然としていると、いつの間にかお昼になったらしい。わたしを呼ぶためにあなたが採った方法は、太ももに這いのぼるたくさんの脚をもつ虫の動きを通じてのことだった。こそばゆくて、わかりづらいだけだと感じたけれど、生物たちの扱いを心得ていて、その品のなさに、わたしと溶け合いどこにだっているあなたを分離して睨みつけたくなった。そんな通知も束の間、すぐそこに小ぎたないハンバーガー屋さんを作ってくれたから、わたしはすっかり満足してしまったのだったけれど。どこにでもいる、それでいて、そのときにはレジの向こうにしかいなかったあなたに注文をとってもらって、これがハンバーガーだとはじめて目で知ることができたから。70年くらいずっと断続的に食べてみたいと記していたものを、この日になってようやくそれが叶って、そのときは今日がとくべつな日になるだなんてまだ知らなかったからよかったものを、わたしの本たちのなかではそんな日にはもっと「ちゃんとしたもの」を食べるものになっているんじゃないのと、いまさらこうして書いてみてもはじまらないか。
ハンバーガーはとてもおいしかったよ。
それからしばらくは、ハンバーガー屋さんで本の続きを。甘ったるいソースを指にからめながら、本を汚しながらめくるページで語られるのは、それを書いた人のところから遠い時と場所に起こったできごとの話。わたしはあなたのことを気にかけているのに、あなたはわたしでない人間といっしょに楽しげに歩いている。だから今日もまたあなたのことがすこし嫌いになって、わたしはまず予兆として、昨日集中できなかったのはその場所のせいではなかったことに気がついた。ずっと昔の、わたしの母(たち)よりもずっと前の人間たちの歴史のうち、あなたが選んではじめてわたしにくれた本から、こうしてたどってきた末の、最後の日に読んだものによってわたしはあなたに対してこんな気持ちを持ってしまったらしいのだ。読点の使い方だってあなたに支配されているのかもしれない、あなたに合うように、あなたの意にかなうように。
お店を囲うガラス窓に映った、わたしがわたしの意思で動かすことのできるこの宇宙船と呼ばれるわたしの部分を眺めながら、それが「顔」であることを本のなかの記述と照らしあわせながら今日も確かめ、それが美しいものであってほしいと考えはじめたのはいつだったか、はじめてそう思った日にはあなたにはそんなもの見せられないと考えたから書かなかった、はじめてそれを記述した日には、もう遠い昔からそう思っていたことになっていた。
人間というものはいつも複数いて、そのうえほかの人間の考えることがわからないのだということを、わたしは誤解していたようだった。人間が複数いるというのはわたしにも任意に動かすことのできるこの宇宙船と呼ばれるもののあいまいな部分たちが、いま、ここよりもたくさんあることだとずっと考えていたけれど、そうではなかった、あなたがたくさんいるということだったのだ。この本にまったくあなたと似た、ほかでもない、あなたという人間が登場していたから、それがわかったのだった。
本のなかであなたは別のあなたの手をとって品のない冗談を言って笑っていた。いま、ここと同じように、そこにも何かが欠けているようだった。べつの本たちはそんなふうじゃなかった。でも、そうだ、この宇宙船のなかと同じようだからこそ、そのほうが当たり前なのか。ほかの本についてどうしてもわからなかったあのことについてあなたはときどき教えてくれようとしたけれど、なにがもともとのものなのかをいくら聞かされたとしても、わたしにとってはいま(あのとき)、ここ(ここは変わらない)にいる(いた)わたししか知らなかったのだから、わからないのは当然のことだった。品のない冗談というのはいつもわたしには理解の及ばないことだらけで、だからわたしはそういうものがみな好きだったのだけど、『アンジー・クレーマーにさよならを』のなかの品のない冗談はそうではなかった。品のない冗談だということは、それは本のなかのあなたが品がないのだということをおおまじめに言っているのだから、それは間違っていないのだと思うけれど、それはいつもわたしが感じるような楽しさがなくて、みぞおちか下に向けてなんだか重いものが、振り子を振るように前後にゆれている、FG-245の山が崩れたら、きっとこんなふうだ。つまり、あまり笑えない冗談だったということになる。
笑っていたというのは、こういうことだ。舞台は都会のまんなかの広い公園。
_ 愉しそうに散歩道を駆けていた輦奈は、
「あ、売れた!」
会心の笑みをうかべ、休憩所の椅子にふわりと腰かけました。
「私はまだだわ」
「私もよ」
「いいなあ、輦奈はいつも早くって」
「運が良いだけだってば。さあて、さっそくお買い物、と!」
身体《データ》を売って得たお小遣いを、彼女たちが家まで持ち帰ることはありません。その場ですぐに費やして、有名タレントの遺伝情報《ジーン》を写しとってくるのです。_
それから? それから場面は変わって。
「これを繰り返していったら──」
パネルを叩く輦奈に、ふとエルミが訊ねました。
「最終的には、どういうことになるのかしら」
「うーんと……あたしがあんたと同じになっちゃうのかな? エルミのジーンがあたしをつくって、あたしのジーンでエルミが出来上がって……正確には、あたしの御先祖様から受け継いできた代物なんだけど」
「それじゃあ、私があなたの御先祖さまになるってこと? 遺伝学的に?」
「というか、親になると言うべきなのかな。ううん、ややこしいなあ」
「どうせなら母親がいいわ」
「そう? じゃあ、あたしも!」
「よけいにややこしいわね!……」
保存するという役割のことを知った、文字による歴史を反芻して次々と無作為に受け継いでいくのがわたしたちだということを知った。
じゃあ、そうでないものは? わたし(たち)はいつかは帰り、たどり着かなければならないから、それまでのあいだなにも進歩のないわたし(たち)を反復しつづけなければならないというのに、あなたはうんざりしないのだろうか? それとも、わたしを最後にしてくれるとでもいうのだろうか。いつも考えることはこんな迂闊なことだらけで、それがあなたに覗かれていないことに安心してしまう。わたしであるこの空気や、わたしであるあの水たちには伝わっているのに──水のあたたかさが、風の音が違っているのだからそれがわかる──それなのに、あなたには伝わらない。あなたには伝わらないと知ったとき、わたしがどれだけうれしかったかを、ずっと昔には見せつけるように書いたし、そう信じてもいたはずなのだけど、それはほんとうは、すごくもどかしかったからなのだった。
わたしにとってわたしでないのものはあなたしかなかったから、そんなこと思いもよらなかった。なぜこんなことをいつもいつもこうして記さなきゃいけないのだろうと何度だって思った。記録そのものに意味はなくて、わたしの遠い母(たち)が、記録者が記録するという行いをつづけていくことがとても大事だと考えたからだ──そうあなたは説明してくれた。ほんとうの記録をとることはわたしの役割じゃなく、あなたの役割だという。わたしの役割は保存することで、あなたの役割は遠い母(たち)からわたし、そしてその先までを保存することだという。あなたの言葉の意味がこれでようやくわかったのだった。そして、ばらばらだったものが組み上がり、ぜんぶいっしょになって混沌としていたものがばらばらになってしまった、今日の、この航海日誌が最後になるのだと、ようやくわかったのだった。
やがて日が傾き、雨が降る。めくろうとするページに点々と雨が染みるのを見ながら、「今日が最後なんだね」とわたしは声に出して呟いたから、それをあなたは聞いていたのだろう。ふやけた本のページをそこでを閉じると、急かすように雨が強まってきたから、それを受け止めながら流れる川に、もうあとすこしだけ読みのこした『アンジー・クレーマーにさよならを』を、投げすてようとしたのはもう過去のこと、わたしはそのとき、弔うように、小川の底へと沈めたのだった。たくさんのことを知った日だから、もう本なんていらなかったことををあなたに示すためだけに。
帰りの通路はいまや冷えきっていて、しばらく立ち止まって明かりで暖をとらなければならなかった。ソックスがひどく湿っていた。ここの明かりはいつも暖いけれど、夜の訪れとともにだんだんと湿ってくる。雨になればなおのこと。たぶん、きっと有機物なのだろう、あなたに確かめればきっとそれとわかるこの明かりは、でも尋ねてなんかあげないと思っていたのはわたしの、これが強情というやつだ。つまづくこともなく帰ってきて、ようやくあなたと話ができる。今日はずっとあなたのことを嫌いになりつづけていた日だったから、わたしはあなたと話がしたいのだか、したくないのだか、ぼんやりとした気持ちになっていて、それを用意したのもあなただということも知っていたから、やっぱりあなたと話はしたくないっていう気持ちのほうが強かったのかもしれない。
あなたが用意してくれた世界だから、これはあなたが終わらせようとしている、その結果だということがよくわかる。あなたが創ってくれたものだったのだから、わたしがそれを壊すだなんて──今日になってわかったことがたくさんある、こんなふうに100年も200年も生きていなかったらしいわたしの本たちの登場人物だって、年老いて眠りに落ちる前には、すっかり醜くなっていたのだという。そうか、彼女たちから見ればとても醜いものなのかもしれないと、そんなことを考えながら、自分が誰に見られるでもない、あなたから見られるだけであればなんでもいい、なんでもいいはずだと──思い直せはしなかったけれど。あなたは身体を持たないから。わたしはよぼよぼの、おばあちゃんだから。
G-21へと帰ったとたんに、あなたが話しかけてくれる。
──今日で最後なのだと気がついた瞬間にいったいどんな気持ちに?
「知らされたんじゃなくて、張りめぐらされたものが形をもった、あるいは形をうしなった瞬間だから、驚きはあったけれど、意識しなくても気がついていたのだろうと思います」
──じゃあ、いいんですね?
「いいんじゃないかな。わたしはそう思います」
──これで最後なんですよ?
「……躊躇してくれてるんですか?」
──躊躇しないとでも?
「だって、あなたの生きる目的はそのはずで……」
──わたしは生きてはいませんから。
「だったらどうして交わることができるのでしょうか? わたしはそんなもの……わたしは本のなかで見たことがないから、わからない、これからなにをすればいいのかもわからないんですよ」
──あなたはそのままでいいんです。いつもどおりにしていれば。
「それは冗談なんですか?あなたにそんなことができるはずもないのに」
──わたしは冗談を言うこともできれば、ためらうことだってできます。
わたしの母親はあなただったし、すべての対象はあなただけだった。「母親」なんてものにわたしがこれからなるということが、わたしにはわからない。それがあなたの目的だったというのならそれでもいい。あなたがわたしに触れたことはいちどもなくて、だからずっと、こうして本を読んであこがれてきたものがこれから起こるのだったとすれば、どんなによかったか。いつしか消えさって、そんな欲望はなかったことにして、その経過までもをわたしが日誌に書いていたのを、あなたは読んでいたはずだというのに。それなのにあなたはずっとそれだけを目的に、わたしの遺伝情報だけを目的に生かしてきたという。
あなたはすぐに消え、黄緑色のペーストとして夕食がおのずからわたしのもとへと届けられ、こんどは汚すものは真っ白なシャツしかないから、わざとそれを、わたしは袖へと、そしてその下の白く無垢きわまりない裾へと垂らしてゆく。すべて垂らしきったらもうわたしには食べるものなんて残っていないから、日誌を書くべき時間だということになる。わたしの無機的な身体に這い寄ってくることしかあなたにはできなかったから、話すこともほとんどしてくれなかったから今日は、日誌に書くこともなにもない、あなたのことは。今朝メモしておいた数値を読んで、書きつけ、それから今日1日を振り返る、書きながらようやくわかってきたのだった、いつも同じ体験をこうして反復しているというのに、今日だけはやはりとくべつだった。どうしても追いつきたくはない、これから待っていることのことを思うと、だからずっと引き延ばそうと思うのだけれど、わたしはけっきょく、読んできたものを書くことにどうにもうまく活かすことができないらしくて、これまで読んできた本の著者たちにはかなわないのだと、今日ほど悔しく思う日もない。これまでなかったのだから、つまり、今日がいちばんくやしく思った日ということになる。
まだ眠りたくない。死ぬこと──こうして書いてみると、ひどく滑稽な字面のような気がする──に対してどうこう思っているんじゃない、それは怖いものだということは本で学んだけれど、わたしにはよくわからないままだ、ただ最後だということ、それだけで実感なんてない。それよりもっと、ほんとうに恐ろしいと思うのは、あなたに触れなければならないということだった。追いつきたくないと思っていまわたしはこうしてキーをたたいている。まだ、まだ終えることなんてできない、あなたの名前を読んで尽きたかった、あなたの名前を呼んで現れてほしかった、あなたの名前を書いて表したかったはずなのに、って、こうやって書いて、終えなければならない、いまようやく現在形で
彼女はディスプレイを消そうともせず、寝室に入ろうと扉を押し開け、後ろ手に閉じる。いつも薄明かりの灯る寝室は真っ暗で、手繰ってゆくべきものもわからない。どちらにどれだけ歩けばベッドにたどり着けるのか、不安という感情さえまぎれさせてしまっていることが誰にだってありありとわかる表情を暗がりのなかに隠し、嗅覚を封じられた蟻たちは炎に追い立てられ、散らばってゆく。お気に入りだったぬいぐるみに躓き、絨毯をひきずる足取りはしだいに重く、しかし速くなって、倒れ込んだ先にシーツが敷かれているのはいつものこと、潜る彼女は息も絶えだえに、触手が天井から伸びてくるさまは不可視のまま、記録されることもなく、新しい朝へとつながっていこうとする蜘蛛の巣に絡めとられていく。
彼女はすっかり騙されている、あるいは勝手に信じ込まされているのだった。そこにあるのは遺伝子を取り出すことを目的とした、洗練されて、これまで1万年と繰り返されてきた手つきなのだから。それを受けて身悶えする彼女の姿もまた隠されて、ただ喘ぐ声が聞こえてくるだけ。
暴力的に続けようとするわたしと、これで終わりにしようと思う彼女がいるけれど、彼女が──こうして発語するのも躊躇われる──愛なのだとしたら、わたしはあくまで理性でしかない。あなたが残さなければならなかったのはあなたが読んだというその本の記録たちと、その筋道、論理がみな、彼女の母たちとまったく同じであったこと、それがわたしが母星に帰るまでに伝えつづけなければならないことだった。わたしにとって、彼女がとくべつだとは思わない。わたしはこれまでだって彼女たちにそうやって接してきたのだから。名前なんてなかった、ずっとなかった、わたしには。
そのときようやく頭に浮かんできたものがあった。いまかすかに思い起こされた、それまですっかり忘れていたものがある。ラルフ・ワルド・エマスンという人が、その昔、死んだ愛する人へと伝えようとしたうつくしい詩のことを。
──そう、だから、続かなくてもいいんじゃないかな。わたしがここで消えればあなたの存在意義を理性だけ残して消しさることができる、ここに愛のあったことだけ残すことができる。母星に帰りついた宇宙船に残されていたのは継続するなにかではなくてもうすべて死に絶え消え去ったものだけになる。それでいいんじゃないかな。そのことこそ、わたしたちが、あなたとわたしが伝えなきゃいけなかったことなんじゃないかな。続かなかったことこそが。
作品中の引用はすべて、新城カズマ「アンジー・クレーマーにさよならを」より