書きあぐねている――というのは正しくない、そもそも書く気がないというのがおおよそのところだ。一昨日飲みに行ったたいして親しくもない女に「学生のころ誰に見せるでもなく小説を書いていた」という話をしたところ、好奇の目で見られた上に「官能小説でも書いてみてよ、読むから」と言われ、酔っていた勢いもあり了承してしまったのだが、こうしてパソコンを目の前にしてみると頭のなかには断片さえ浮かんでこない。もちろんその約束を律儀に守り通す義理などもとからないのだけれど、それはそれで詰まらないというか、仕事を辞めて暇を潰すのにも飽きていたから丁度いいということで、つい先ほど書きはじめる決心をしたのだった。ただ元来おれは官能小説なぞ一度も読んだことがなく、そもそも官能小説がどういったものなのか皆目見当がつかない。エロマンガ雑誌ならばそれなりに持っているためそれを参考にしようと思い引っ張り出してみる。数日オナニーをしていないだけで下半身に血液が溜まりはじめ、小説のことなどすっかり忘れてしまいたい衝動に駆られるが、おれはいま、書く気がさらさらないとはいえ官能小説家なのだと、ともかくも成り切ってみる。官能小説家なのだからこれは勉強であってオナニーなぞしない。金に困っているけれど官能小説以外では金を稼ぐことのできない哀れな作家なのだ、そう思い込む。強く弱くと下半身を振り乱す二次元の男と女――いや、女がほとんどなのだが――紙面に描かれており、つまりはこれを文章で表現すればよいのだろう。簡単なことだ。そして――そうだ、官能小説といえば、男性器と女性器は個性的な名前にしなければならないと閃いたと同時に思い出した、「一度も読んでことがない」なんてことはなかった。幼少のころに父親の「プレイボーイ」で読んだことがあるじゃないか、あの小説では男性器のことが「アスパラ」などと呼ばれていたのだった。そのくらい個性的な呼び名を思い付かなければならない。そう考えながらエロマンガを読み進めていくと、ついに男が射精し、おれも同時に――漫画のなかの時間に対して「同時」などという言葉を使うことにどれほどの意味があるのだろう?――射精してしまった。結局オナニーをしていたというわけだ。エロマンガを読んだところで得たものは性的な満足感以外に何もなく、もちろん個性的な男性器の呼称も登場しなかったため、すっかり気力が萎えてしまい、おれは開いたままのパソコンでインターネットをはじめた。おれの信じるところによれば、インターネットはその全体ですでに意識を持ち、人間の与り知らぬところでなにかおそろしい文章や画像を生成しているということになっている。いま「おそろしい」と言ったけれど、それは「おそろしい文章」であるとか「おそろしい画像」であるとか、そういった意味ではなくて、人間でないものによって生成されたからこそ、それがごく普通の文章や画像に見えたとしても、どこか不気味な感じを受けるであろうという意味だ。陰茎を露出したままインターネットをしているとなんだか愉快な気持ちになってくるのは、読まれている相手だってまさか陰茎を露出したまま自分の文章を読まれているとは思わないだろうという理由によるのだけれど、しかしそれがインターネットの意識によって生成された文章であったら、その愉快な気持ちを持っている自分がよっぽど滑稽であるということになってしまう。そういう意味でもおそろしいと感じたから、おれはまず陰茎をしまいこみ、万全な態勢でインターネットに向き合うことにした。おれはインターネットというものが大好きだから、やはりこのくらい集中しなければと考えてしまう。今日も適当な言葉をGoogleで検索する、もちろん上位の検索結果は無視する。そんなものを見ても有用性の高い結果しか出てこないだろう、そのくらいにはおれはGoogleというものを信頼している。有用性の限界が見えてくるのはだいたい5ページめくらいからであって――もちろんこれはただの経験則でしかないのだけれど、だいたいのところうまくいっている。
ひとしきりインターネットを楽しんだあとブラウザを閉じると、真っ白なままのエディタが姿を現わし、そこでようやくおれは官能小説のことを思い出す。そういえばおれは官能小説家であったのだ。そして先ほどの自分の行動から名案を思い付く。インターネットから適当な官能小説を探しだし、それを適当にコピペで繋ぎ合わせればよいのだ。これは頭の悪い大学生がレポートを書くためにしばしば利用している手法であると聞く。大学生ならばそんなことをすれば問題にもなろうが、親しくもない女に官能小説でも書けと脅された――この際だから脅されたことにしてしまおう、誰に対してそれを主張したいのかは解らないが――のならば、そんなふうに官能小説を書いてもなにも問題あるまい。そうと決まれば善は急げである。もはや何の躊躇もなくなったおれは、まず「アスパラ」で検索をかけ、さっそく検索結果の5ページめに飛ぶ。しかし性的な要素は見あたらない。当然といえば当然のことだ。――いや。アスパラにマヨネーズをかけるとうまい云々、という記述を見つけ出すことができた。これは性的な記述といってよいだろう、間違いない。まずはこれを抜き出しエディタに貼り付ける、これでおれの官能小説の書き出しが決まった。小説家になった友人の友人の言うところによれば、小説というのは書き出しを決めてしまえば八割がた完成したようなものだという。そんなことを友人からの伝聞で聞いた。つまりおれの官能小説も八割がた出来上がったようなものだと言える。もちろんその小説家の言うことを信じるならば、ということにはなるが。とは言え、そもそも人間など自分の信じたいものを信じればよいのだから、おれはこの瞬間にその小説家のことを信じることにした。当然おれはその小説家の作品を読んだこともなければ、名前すら知らない。ただその言葉だけを信じる。これこそが信頼の最も美しい姿とは言えないだろうか?――そんなことはともかく、次の検索語を何にするかを決めなければならない。さっきは男性器の呼び名で検索したのだから、今度は女性器ではどうだろう。しかし女性器の個性的な呼び名など思い付くはずもない。ずいぶん長いこと漫画でしか目にしていないものの呼び名が思い付くというのか。そんなはずがなかろう。「女性器 名称」で検索してみるといくらでも引っ掛かったけれど、アスパラに対応してくれそうな何物も発見できない。そもそもアスパラに対応させる道理もないし、どのみちおれは男性器になぞ興味がないから途中で飽きて陰茎とでも何でも呼ぶことになるのだろうが、それはともかくとしてやはり女性器は重要だ。そう考えながら次々に検索結果を開いていくと、各国語、各方言での女性器の呼び名を羅列しているサイトが見つかった。これは便利と並べたてられた女性器の呼び名を見ていくうちにおなしなことに気がついた。懐しい女性器の呼び名に出会ったのだ。おれ自身もそれまですっかり忘れていたのだが、おれはまだ子供のころ、自分のなかでしか通じない女性器の名前を考えていたのだった。非常に発音しづらかったのだが、口に出す機会もまったくなかったし、当然他の誰かに言ったこともなかった。たしか小学三年生かそのくらいだったはずだ。すぐに飽きてしまったためごくごく短い期間しかその言葉を使うことはなかった。ただ自分のなかでだけ、自分の性的妄想のなかでだけ、女性器をそう呼んでいたのだった。まさか再会することになるとは思わなかった。「日本語」「地方不詳」と書いてあるそれ(●●●)は、やはり文字にしてみると不思議な並びではあったが、間違いなくおれの考えた女性器の名称だ。おかしなこともあるものだ。日本のどこかで、女性器のことをまったく同じ呼び名で呼んでいる人間がいたとは知らなかった。ひどく懐しい気分に駆られ――女性器の呼び名で郷愁に駆られるなど滑稽なことだ!――せっかく思い出したのだからと今度はこの言葉で検索をかけてみることにした。
結果は二件。たった二件だった。ひとつは先ほどのサイトで、これが一番最初に出てきた。そして二件目。タイトルは文字化けしていたのか元から無意味な文字の羅列だったのか知らないけれど、本文は日本語のようで、たしかにその言葉が登場していた。もちろんおれはそのリンクをクリックしてみた。どうやら2ちゃんねるのスレッド、タイムスタンプはやや古く、2003年ごろだった。はじめのうちはただのクソスレというか、誰かがくだらん思い付きで立てたスレで、クソスレ立てんなだの終了だのといったAAが山ほど貼りつけられており、ときに読むようななにものもそこになかったのだが、そのうち誰かがスレを乗っ取ったのだろう、>>80を超えたあたりから急に長文レスが増えていった。書き込んでいるのは一人というわけではなさそうだ。求めるのは例の女性器の呼び名なのだからさっさとCtrl+Fでもかけてやればよかったのだが、眺めているうちに内容が気になったおれは、長文レスを順に読んでいくことにした。なぜって、その書き出しが「アスパラにマヨネーズをかけて食べるとうまい――」から始まる、なんと、官能小説であったからだ。つまり、おれが先ほど書きはじめた官能小説と同じ始まりかたをしているというわけだ。おかしなこともあるものだ。まるで未来のおれが書いた官能小説ではないか。しかしタイムスタンプは先ほども述べたとおり2003年ごろ。今は2010年だ。では未来の自分ではない。では誰か。まったくの偶然なのかもしれない、しかし、もしかしたら、もしかしたら、だ。これこそインターネットの集合的無意識が自動的に生み出した小説なのではないだろうか。おれ自身がどこかにあるのではないかと考えていたものについに出喰わした感動にうち震える。――アスパラにマヨネーズをかけて食べるとうまい。そんなことを家庭教師から教えてもらったのも、もうずいぶん昔のことだ。成人した彼は順調に成長し、そんなこともすっかり忘れてしまっていた。しかし彼はあるときそれをついに思い出すことになる。この物語は女家庭教師との再会、そしていまや熟れた女性となった彼女との性交の一部始終を観察した実際の記録である。――そんな始まり方で、そういえば、おれ自身にもそんな思い出があったような気がしてくる。たしかにおれは高校生のころほんの短い間だけ家庭教師に教わったことがある。若い女子大学生だった。美しい女であったが、今はどうしているのだろう。やはりこの小説はおれのことを書いているのではないだろうか。もちろんアスパラにマヨネーズ云々を知ったくだりはまったく実際と異なっている。おれはそのことを先ほどはじめて知ったのだ――いや、おそらくうまいのだろうということくらいは考えていたが、試したことはなかった――女家庭教師との再会がきっかけとなったわけではない、まったくの偶然であった。とはいえ、やはりなにか符丁のようなものを感じずにはいられなかった。奇妙で、たしかに薄ら寒くなる状況ではあるけれど、結局は興味のほうが勝ってしまう。おれはその小説を読みはじめた。
さて、唐突ではあるが、そもそも官能小説とは何か、という問いに対する自分なりの考えをおれはここで開陳しなければならないだろう。まともに読んだことがないのだから当然イメージでしかないのだけれど、おれのなかには「官能小説が官能小説たるべき条件」が確固としてある。官能小説にはまず、異性間であれ同性間であれ性交、あるいはそれに類する描写があらねばならぬ。それがまず第一の条件であはあるが、もちろんそれだけでは充分とは言えない。その描写は読者の劣情を誘うほどに激しく生々しい官能を感じさせねばならぬ。なぜって、目前で淡白に性交の描写をされても、たいていの人間はただ虚しく感じてしまうだけだからだ。こういう小説――まあ漫画でもゲームでもなんでもいいのだが――を読む人間というのは現実のセックスに飢えており、それを窘められるために官能小説を読むのではなく、それをむしろ、燃え上がらせんがために読むのである。だからこそそういった官能的な性交あるいはそれに類するものがまず第一に来るべきといえる。だからこそ、筋だとかリアリズムだとか、そういったものは二の次なのだ。だがもちろん、それらがまったく無いというのも困りものだ。劣情をよりうず高く燃え上がらせるためには、その官能の主体たる登場人物への感情移入が必要不可欠であるというのがその理由だ。いきなりセックスをはじめられても、それはおそらく動物の交尾と変わらない。もちろん動物の交尾に劣情の炎上を求める者もいるにはいようが、わざわざ小説という面倒臭い媒体を選ぶん人間が、それを好むとはとても思えない。だから、感情を移入させるに充分な筋というものも、やはり必要となってくる。では今おれが目の前に見ているこの2ちゃんねるのスレッド、これはどうだろうか。先ほどおれはこのスレのことを「官能小説だった」と言ったけれど、上述した官能小説の定義をいったい満たしているといえるのだろうか。ざっと見た感じでは、官能的な描写が満載であるように感じられる――それが劣情を昂らせるのに十分であるかは今はまだ判断がつかないものの。ただ、もう一つの要である感情移入については、もはやこの時点で判断できる、まずもっておれしか知らないはずの呼び名を使っていること、そして、序盤の主人公の行動からしてまさにおれのことを書いているのではないかと思わせるに足りる内容である。そのことを示すために、出会いの場面から一箇所引用してみることにしよう。――再会というのはいつも突然にやってくる。彼にとってのその舞台は、いつも利用している古本屋でのことだった。彼がいつもどおり買うべき本を抱えたまま小説の棚を漁っていたところ、ふとぶつかってしまった女性。それがあの懐しい家庭教師であった。ぶつかった衝撃で彼は抱えていた本を床に落としてしまう。謝りながら拾う彼女、そして手と手が重なり、互いに目線を交わしたとき、ついにそれとわかる。彼にとっては、高校生のころずっと自慰の対象であった女性。彼女にとっても、彼にそれと解らないよう淫猥な言葉を吐くことが快感であったその相手であったのだ――等々。まったく日本語としてまずい描写が続くけれど、そんなことはどうだっていい。問題は古本屋での彼の行動である。ここに一人で住むようになってから、おれには馴染みの古本屋がある。古本屋といっても、風情のある古書店を想像してはいけない。ブックオフだとか、そういうものを想像していただきたい。つまりそんなものである。おれの趣味は、名前も知らない、ほとんど世に出ることもなかったまずい小説家のまずい小説を買い、適当に読み、そしてまた売ってしまうことだ。おれは小説家を目指していたけれど、あまりに小説について考えてしまったせいか、それともおれの頭が悪かったせいか――おそらく後者であるが、前者であってほしいものではある、だからといってどうにかなるものでもないが――小説の善し悪しがまったく解らなくなってしまって、その上、誰もが読んでいる小説を読むのはおれのすべきことではないという考えに至ったのだ。つまり、この官能小説の主人公である「彼」と同じことを、毎日のように――仕事を辞めてからは、ほんとうに毎日のように――やっている。つまり何が言いたかったかというと――この小説はまさにおれのような人物を主人公としており、感情移入するにはもってこい、これはおれにとって、すくなくともおれにとって、官能小説としての条件を満たしていると言える、ということだ。
そして彼女は「今どうしてるの」と――このあたりは面倒だから省略してしまって構わないだろう、なんだかんだあって、ついに彼の部屋に彼女が上がりこんでしまうことになる。驟雨、出先で傘を忘れた彼女は、びしょ濡れで、すこし休ませて迷惑はかけないからと、彼に電話する。彼はパソコンの前で電話をとる。ちょうどその部分を読んでいるとき、――まさにこの小説と同様に――おれの電話が鳴った、携帯電話のディスプレイには知らない番号が表示されるものの、おれには既に相手が誰かということくらい見当がついている。それほど驚かない。十分に有り得ることのような気がしてしまう。ともかく、電話をとると――「こないだお兄さんに会ってね、ほんとに偶然なの、いま○○駅のあたりに住んでるって聞いてさ、しかも仕事辞めて家に籠ってるらしいじゃないの、お兄さん心配してたわよ、それでね、ちょうど近くに行く用事があったから、会えないかなと思って、ほら、せっかく私のおかげで大学合格できたんだから、勿体ないじゃない、今から出てこれない?あ、電話番号はそのときにお兄さんに聞いちゃった、ごめんね」などと早口にかすれたように耳元に囁かれる声は、たしかに懐しい、あの美人女子大生、家庭教師。ただ、外は雨ではなさそうだった。その息づかいにおれは不覚にも勃起するが外に出るつもりはない、こんな真っ昼間から外になぞ出てたまるか。目前の官能小説はたしかにおれのことを書いている、そしてそのようなことが有り得るというところまでは、おれは納得している、そのくらいの奇妙なことが起こる世界だということくらい、おれは承知している。これくらいのシンクロニシティが起こることくらい朝飯前なのだ。ただ、だからといって、全く同じことが、つまり官能小説であるから彼らはセックスをすることになるのだろうが、そんなことが起こるとは限らない、一瞬だけ符合した虚構と現実はまた二つに分岐し、おれはこの元女子大生とセックスすることなどできないだろう、だから、おれは外には出ない。どうにか理由を見つけなければと焦っているおれの耳に信じられない一言が届く。「出て来られないって、それどういうことよ、じゃあそっち行くわ」。
――彼はさすがに驚いてしまう。あのころの彼女はそんな女だったろうか、黒い雲からかすかに射し込む光を背にしたこの目前の女は果たしてあの彼女と同じ人間なのだろうか。受験が終わり、いちどだけお礼にと、母と連れ立って食事に誘ったことがあった、あの帰り道でそれまでと違う彼女を見た。無口で化粧も薄く、美しかったけれど取り付く島もなかったあの家庭教師が、いつもと違う微笑みを見せた、そんな日のことを思い出した。湿った空気が室内に侵入する、彼女の香水の匂いが鼻腔に侵入する。自慰に疲れた彼と彼自身は、それでも勃起を抑えられず、彼女と対峙する。「あんまり女の子を待たせるものじゃないわよ」と、最早女の子とは呼びがたい妖艶さを湛え彼女は囁く。拒むこともできなかった。「し、しばらく待ってくれませんか」――
さすがに断わろうとしたが、彼女の喋る声を聞きながらディスプレイの文字を追っているうちに、あわよくばという欲望を抑え切れなくなった。最後に母親以外の女と会話したのはいつのことだったろう、仕事を辞めてから近所のコンビニと、失業保険の受けとりのためのハローワーク以外に出向くことはほとんどなかったものだから思い出すこともできない。昨日?あれは女じゃない。――ともかく。ほんとうにセックスなんてできるわけがないのだけれど、せめて女の匂いを嗅ぐくらいのことは、そろそろあってもいいはずだ。べつに期待しなければ裏切られることもない、せいぜいあわよくばといったところで、そんなものは期待でもなんでもない。だからおれは仕方がないといったふうを装って承諾することにした。べつに招いているわけでもないこと、しかしおれの心は広いということ、それらを同時に伝えるよう最善の努力を尽くしたつもりだ。おれはこのような人間関係への配慮を日々怠らぬよう気を遣ってばかりいる。そんなことを考えているうちに電話が切れた。これからほんとうにやって来るらしい。それを意識しながら周囲を見回すと部屋の汚なさに吃驚してしまう。これから女がやってくるまでの短い時間で、これをいったいどれほど改善できるというのだろう。――とりあえず部屋の床に無造作に置かれたゴミを袋に詰め、エロ本を本棚の奥に隠してみるも、それ以上になにをしていいか解らない。「まだー?」という声が玄関から聞こえてくる。散らばる陰毛を眼下に彼は呆然とするも、意を決して彼女を迎え入れようと声をかける、「汚いですけど……」。ドアが開きまた閉じる音がして、香水の匂いがどんどんと近づいてくる。「うわっ、予想はしていたけど、それ以上ね」――とりあえず部屋の床に無造作に置かれたゴミを袋に詰め、エロ本を本棚の奥に隠してみるも、それ以上になにをしていいか解らない。散らばる陰毛、そういえばコンドームでも買っておくべきだろうか、いやそれは期待しすぎというものではないだろうか、いざとなれば生でどうにかしてやればいい、そんなものはエロ漫画の読みすぎだと言うのならば言わせておけ、おれはそのくらいのことはする男だ、しかしそれがないからといって不如意に終わるのも不本意だと、そこまで考えたところで、とりあえずおれはコンビニへと走る。息を切らせてコンビニに入りコンドームを探しだし一箱手に取りレジを見てみれば、そこには女性店員しかいない。ここはいつも利用するコンビニだ。恥ずかしいというよりも、彼女たちのおれに対する印象を悪くしてはたまらないと考えたから、バレないようにコンドームを棚に戻しもうひとつ先のコンビニへとまた走る。交差点を一つ渡らなければならない、あんまり悠長にしていると彼女がやってきて、コンドームを持ったおれと部屋の前で鉢合わせしてしまう、それだけは絶対に避けたいと思ったから、とにかく走った。コンドームを買って部屋に戻ってみると、彼女はまだ着いていないようで安心したが、不確定な未来のセックスのためにどうしてこんなに体力を使ってしまったのかという徒労感があまりにも大きい。「面倒なことさせやがって」と一人ごちるが、息が落ち着いてくるとそれも期待感の裏へとひっこんでしまう。額や鼻に滲み出たべたべたした汗を洗い流し顔を拭いたところでもういちど電話が鳴る。近くまで来ているはずだが場所が分からないという。これからまた外へ出るのが面倒だと思ったので、迎えに行くこともせず、女の居場所の見当をつけ、右へ左へまた左へと適当に誘導してやることにした。
「二階の二○三号室です」しばらくして、ハイヒールだろうか、硬い音が響いてくる、薄い壁を突き抜けて、彼の心臓を脅かすように。2ちゃんねるを開いたままのディスプレイに気づき、彼はブラウザを閉じる。もう少しで性交に辿りつくところだったのに勿体ないことだと考えたりもする、束の間、チャイムが鳴る。彼はドアのほうへと急ぐ。おどおどと招き入れる。結局座る場所もないので、おれはPCの前に坐り、彼女はベッドの上に座ることになった。勃起に気付かれないように座るのも一苦労だ。「汚いとは思ってたけど、予想以上ね」と彼女が睨む、すぐに嘲るような顔に変わり、また無表情に戻る。忙しい女だ。――「ともかく、ありがとう。困ってたのよ。シャワー浴びるから、Tシャツと下着、あとジャージ、貸してもらってもいい?」いくらなんでも無茶苦茶だ、そう思ったけれど、ここまで来ているのだからとりあえずその通りにしてやるしかない、おれのことを何だと思っているのだろうか。これですよと差し出した着替え一式を何も言わず受け取り、風呂場へと向かう。ユニットバス、トイレの掃除くらいしなさいよと文句をたれ、覗かないでねとさらに重ねてくる。たしかに家庭教師をしていた頃だって、理不尽な怒り方をされたこともあったけれど、しかし、この数年のあいだに彼女になにがあったのだろうか、美しいことに変わりはないけれど、その質はずいぶん違ってしまっている、性格についてはそれ以上、いや、あのときはバイト先だからと遠慮していたのかもしれない。おれは悶々と、彼女の服の落ちる音を聞き、シャワーの水音を聞く。その間、おれはどうしても気になってPCを覗いてしまう、何が気になるかと言えばつまり、あのスレのこと。コトに備えて気分を高めておかなければならないと考えたからというわけでもないのだけれど、どうにも面白くてたまらない。客観的に言えば何の面白味もない文章なのだけれど、自身のことであると考えるとどうしても気になってしまう。もはやおれは、これが自分のことを書いた小説であると、官能小説であると信じて疑わない。小説のなかの自分はもはや彼女をベッドの上に座らせていた。彼は背後の水音を強いて無視するようにしばらくの間それを読み耽る。彼のところへやって来た女は、漫画を読んでいるようだった。ぽつぽつと口から出る思い出話、そして、ああ、なんと陳腐なことか、あの頃から付き合っていた恋人と別れたばかりなのだという、彼は窓の外を眺めながら話半分に聞いている。――そういえばおかしい、「おれ」はそんな2ちゃんねるのスレッドのことなぞに言及していただろうか。遡ってみると、読んだ覚えのない文章がそこに見える。見落していたのだろうか、だがしかし、書き直されているようにも思えてしまう。まるで自らの体験をトレースするかのように。おかしなことは立て続けに起こるものとはいえ、そこまでの虚構を許してはいないつもりだった。――不審に思ったその瞬間、「タオルくれない?」という言葉はおれの歴史のなかに記念碑的に刻まれそれは後々までおれの内心を照らす光ともなった、そのことは今はまだいい、ただ、ひとりの女を自分のものにする、いまはその欲望だけが渦巻いていた。そう、おれは未だ童貞だ、それはつまり、内心の自由を神に肯定されている、懺悔など必要ない、そのような比喩が使えるのだと、この瞬間おれは信じて疑わなかった。そして、ついに泣きはじめてしまった彼女の横に座る、「ちょっと休ませて」とベッドに座るジャージ姿の彼女、すぐに横になる、「煙草くさいなあ」、現実味がひどく薄く、「何よ」、まさか自分にそんな度胸があったとは思えなかったけれど、抑えられないものはどうにも抑えられないのだ、しなをつくるってのは、こういう表情と仕草のことを言うのだろうとふと思いつく、手を伸ばしたのはどちらが早かっただろうか、しかし、女がいつのまにか、汚いシーツを背景に、壁に向かって横たわった姿が見えるが早いか――
「なんでこんなことになっちゃってるの」と、そこで、あの頃の彼女のように、一瞬だけ見えたのは気のせいだろうか。ただやみくもに自慰にのめり込んでいた高校生のころ、もちろん彼女には見つからなかったと考えてはいたけれど、もちろん大学生であった彼女がそれを知らないはずがなかったのだ、ときどきおれは一人トイレに立って、帰ってきたときにニヤニヤと笑っていたあの顔を思い出して、当惑したのだけれどすぐに彼女の太股に目を移し、気取られないようにまた、そしてすぐに勃起したけれど、陰茎の位置を正していたのだから座るのに苦労はなかった、匂いはもうあの頃の彼女ではない、まさか彼女と性交するなんてことを、●●●がある距離はいますごく近かったけれどきっとあの頃だってそうだった、「あの頃」?――といったって、ほんとうにおれの記憶であるのかもう判ったものではない、ほとんど破きそうな勢いで、彼女のブラジャーはベッドの下に落ちる。彼はもう彼でなくなっている、頭の中がじんじんする、まだじんじんする、「あの頃から、いつかはって思ってたのよ」と、そんな台詞があるものか、それはおれの台詞であったはずで、もしかしたら彼もおれも彼女ももう一人の彼女もないのだろうか。なにを舐めているのかどこをどうしているのか解ったものではないけれど彼女の声だけははっきりと聞こえてくる、おれが彼女の●●●を舐めれば彼もおなじように、また、彼女がおれを咥えればまた彼も咥えられる、「もうちょっと優しく」と言われてもそんなもの止められるわけもないだろう、はやくしてくれ、もう彼は我慢の限界で、「おれよく解らないんですけど」、ふと我に返ったのでそう口にしてみるが、首筋に舌を這わせる彼女に彼はまた理性を失う。おれは――それはもうおれではなかった、ただ、こうして言葉にして伝えられることはとても少なく、客観的に捉えなおすこともやはり不可能だった、主観のうちに埋もれてしまった言葉は二度と浮き上がることはなくて、ただ下半身の充血にだけ専ら用いられる体内の渦をどうしても解放したく、どうでもいい、そんなことはどうでもいいのだと皮膚の裏側が吠える。もはや客観性などというものをおれは放棄してしまったのだ。●●●はもうとうに濡れていて、すでに彼も彼女も丸裸で無防備に外の自動車の排気音に晒していた、カーテンを閉めていたことだけが幸いだったか、「丸見えだよ」などと言ってみるももはや可笑しく、そんなことを指導されたはずはないのに、導かれる。自慰的な文章であるというのならそれもいいだろう、これはおれの自慰のために書いてあるのであって、興奮するのはまさにおれがおれのことをおれの主観のために書いてあるのだから、そうだ、おれは放棄してしまったのだった、彼は放棄している、それだけを書きつけるためにここにいるのだ。書くしかない、それが現実になるのを待つ、その遅延は限りなくゼロに近い、ときに遅く、ときにおれは文章というものに先を越されている。自由意志なんてものはないのだと誰かが言っていた。それはべつに本能というわけではなくて――ただ――「先生っ」はじめて彼女を呼んだ、彼女の名前ではなく、彼女の役割は常にそうだった、数年の時間経過は無視され、先生のなかに、ああ、気持ちいいです先生、先生は気持ちいいですか、と聞いても先生は喘ぐだけで答えは帰ってこなくて彼はすこし寂しいけれど、腕がやってくる、おれの肩に手を回す、と、ほら、あの頃のことを思い出して、そう彼女が呟く、おれは既に動きを止めている――ほら、こんなところは読まなくても構わないの、どうせ私に書き換えられてしまってるのだから――あの頃私とやったことにしてあげたっていいのよ、どうせ、こんなインターネットの片隅なんて、誰も見ていやしないもの――ほんとうは時間の前後なんてものはなくて、ただ最初からこの小説が――すぐにメタフィクションに走るのは悪い癖だ。この段落は読者を楽しませることなんてないと、すぐにでも馬鹿にするがいい、ともかく、今こは、おれ(彼)が彼女(彼女)の●●●に、ああ、意外とセックスなんて気持ちのいいものでもないのだなと気付いたと、そのことだけ解っておればよいのであって、ほら、官能小説を一度書きたかったんだっていうのは、じつはこの観察者たるおれ自身の願望であったのだから、いまここで彼と呼ぶおれは性交に溺れているけれど、じつは鳥瞰できていないのではないか?●●●が淫猥な音を立てる。ぺちゃ、ぺちゃ、と、ときに空気が漏れる、「変な音出てますよ」「言わないでよ恥ずかしいから」と、そんなことがあるわけがないとずっと考えているにも関わらず、彼女はより強く腰を振る、哀しくもなんともない、ただ、もう一度だけほんとうに彼女と出会いたいと、ふと思ってしまいながら、それもすぐに忘れる。
――果ててしまった、情けない声を出して、しばらく動かずにいる二人、抜きとって、そこで彼はようやく後悔する。彼女はぐったりとしてシーツを纏い、目は瞑ったまま、僅かに開いた口からは朱い舌の先がちろりと覗いていた。彼はそろそろと、しかし、はっきりとした確信を持って、全裸のままPCの前に坐り、あのスレッドをもういちど開いてみようとする。そこにあるはずの自身の性交の記録を目にすることで、この夢を体験として貶めなければならないと考えたから――カーテンの隙間からは、雨上がりの煌めきなのか、それともはじめから晴れ渡っていたのだったか――いや、そうではない、道沿いの街灯の光であったのだ。日はもう落ちていた。街灯の光は壁にはりつき、ただ照らされた埃だけが舞う、それだけが時間の流れを確かなものにする。あのスレッドは見つからない。「ねえ」と背後から声がする、彼が振り向きもせず、答えもせずにいると、彼女はさらに続ける。「私の思い出を弄んで、楽しかった?」「俺が思い出したんじゃない、こいつが勝手に……」と答えてみるものの、指差す先のディスプレイには検索結果がゼロ件。二人の間にはただ静寂な空間だけが横たわっていた。間延びしたのはその空間であったか、それとも時間であったのかもしれない。彼はふと我に返ると、居心地が悪そうに、またPCのほうを向く。遠くで蛙がげえげえと鳴いた気がした。そんなものがここで聞こえるはずがなかった。それは今の彼の住まいから数十分ほど離れた彼の家で、彼女を送り出すときに、いつも聞いていた鳴き声なのだと気がついた。諦めて振り返ると、彼女はいない、毛布はいつものままそこにあって、寝息はもう、嗅ぐこともできない。おれは嘲るように、あるいは、嘲られているのはおれなのか、感傷的に、叙情的に、うつくしい物語をもういちど語りなおさなければならない、おれ自身の官能小説として、思い出はなんの前触れもなく引き出される。