都市伝説〇八六七

 みんなが廊下の奥に集まって、ひそひそ話をしている。そのうちのひとりが言う。
「○○通りの突き当たりに街灯が三つ並んでるのあるでしょ。昨日はあそこに出たって。お兄ちゃんが言ってた。なんかね、遠くから見たらね、おばさんが椅子にぼおっと座ってるようにしか見えなかったんだけど、もしかしてって近付いてみたらね、足元に布で巻いた長細いものが置いてあって」
「それが腕だったっていう」
「たぶんそうなんじゃないかって。片方に手みたいなのが付いてたのを見たって、言ってたもん」
「へー」「ほー」「ふーん」
「で、結局話しかけたりは」
「さすがに無理。話しかけたら片腕とられちゃうって話知らないの? できるわけないでしょ」
「お前の兄ちゃんだったら勝てるんじゃねえの」
「えー」「そんなあ」「なんだよ……」


どうしてだろう。はじめて聞いたときから、ぼくはこの噂話が気になって仕方がなかった。だからぼくは噂話を集めはじめる。女についての噂、そうでない噂。たくさん、たくさん。


 たとえば、こんな噂。
「学校近くの田んぼのむこうに家があるだろ。あの、いま誰も住んでない、ぼっろぼろの。あそこって昔はすごい金持ちが住んでたらしいって。知ってた?」
「いつごろの話?」
「えーと、爺ちゃんが子供のころとか言ってた。で、なんか戦争が終わったくらいのころに、一晩で一家全員が消えたんだって。それ以来権利がどこにあるか分からないからそのままになってるらしい」
「なんか、えーと、没落、とか?夜逃げ?」
「そんなわけないって言ってた。うちの爺ちゃんは」
「あー、おれもその話聞いたことある。叔父さんがたしかそういうこと言ってた。けど、でもその時は夜逃げらしいって言ってたな」
 当時は街の誰もが、会うたびにその話をしていたという。警察さえ動いたけれど、結局なにも分からず、みんなそのことを忘れ、ときに思い出し、忘れ、少女の幽霊が出るだの、罰ゲームで入った中学生が失踪しただの、思い出し、忘れ、また思い出され、繰り返されている。いま、このときにも。


 そして彼女の噂。
 もう死んでいる、右手を鬻ぐ女、自分の腕、また生えてくる。殺された、呟き囁きかける声、彼女の腕、また生えてくる。誰かに殺された、話を聞いた子がいる、血は出ていたのか、血は流れていたのか。
 話を聞いた子がいる?
 (放課後ももう遅い時間だった)もちろんぼくはその子(女の子だった)をつきとめ、直接問い詰める(隣のクラスの女の子だった)。問い詰められた彼女は(後ろに仲良しの女の子たちがいた)すこしだけ困った顔をする(後ろの女の子たちが顔をしかめるのがわかった)。困った顔をした彼女は(「下校の時間となりました」「校内に残っている人は速やかに」)、ここだけの話だけど(「支度を」「して」)と教えてくれた(ぼくが彼女の噂にご執心だということも)(すでに噂になっていた)(これも噂のひとつ)。「じつははあれ、嘘」なのだと(『月の光』)教えてくれた(女の子たちが連れ立って)。


 たとえば、こんな噂。
「体育館の横の倉庫に幽霊が出るんだって」
「だれが言ってたの?そんなこと」
「みっちゃんの、バレー部の後輩。練習のあとに見たって。しかもあれ、あれよ、エッチしてるって」
「はあ?」
「いやほんとほんと」
「誰か人間がヤってたっていうわけじゃなくて?」
「幽霊だって言ってた」
「えーおれ見てみたいなー」
 幽霊が子孫を作るなんてことが、できるのだろうか?よくわからない。体液も体温もない彼らがセックスをしているだなんて、そんな話。


 そして彼女の噂。
 ああわたしは息子に殺されたのねえきいて息子に殺されたのよどうしてだかわからないのわたしあの子のことをすごくすごくあいしていたはずなのにどうしてあんなことになったのかまるでわからないのあの人と別れてずっとわたしひとりで育ててきた息子なのよはじめにちぎれたのがこの右腕なのまんまとはめられたわあの子ったらわたしに似て頭はいいのねまんまとはめられたのよ気がついたら右腕がちぎれていたあっと思う間もなかったわわたしのからだが宙に浮いたのがわかった痛くなんてなかったけどねなんてことはないわみんなが言っているとおりとつぜん死ぬときってああいうものなのねあの子に裏切られたことはとても悲しくて悔しかったけれど痛くはなかったのほんとうよ右腕がちぎれたのはわかったし痛いのだともわかったけれど痛くはかんじなかったのへんな話ねだからこの右腕はわたしのものであってわたしのものじゃないのどんどんどんどん生えてくるのどんどんどんどん生えてくるのよ怖いわわたしのものであってわたしのものじゃないってそういうことなのだからねえおねがいこの右腕をもらってわたしのものじゃなくしてほしいのだからねえおねがい。
 ある友人の話によると、彼女はひどく饒舌なのだという。


 たとえば、こんな噂。
「このまえヨシオがね」
「おお」
「変態に会ったんだって」
「へんたい!」
「ふはは」
「いや笑いごとじゃないって!ほんと。橋の向こう渡ってすぐに公園あるでしょ、あそこで」
「変態って、何してたの?」
「ちんこ出してぶつぶつ言ってたって、こっち向いてさ」
「へー、案外ふつう。っていうかありがち」
「ボッキしてた?ボッキ!」
「しらないわよ、って言いたいとこだけど、さすがヨシオ、ちゃんと見てたらしいよ」
「あいつが変態だろ」
「で?」
「いや、勃起はしてなかったって」
 陰茎の勃起しない男がつぶやきを宙に放っていると聞いて、ぼくはその言葉を想像したりもした。それをここに書きつければ、分厚い一冊の本をつくることだってできる。すべての文字のすべての順列のうちのひとつ。


 そして彼女の噂。
〈髪は黒く長く地面に向かって真っ直ぐに伸びる。淀んだ目は泥沼、鼻すじは蛍光灯に照らされ際立って見える。口を小さく閉じては開く。棺桶のなかを見せてはもらえなかった。遺影は口角を上げくっきりとした陰影でこちらを見ている。どこを見ているのかぼくには分からない、あいまいな対象をあいまいに見つめる。髪は黒く長く写真の下端のその先へと真っ直ぐに伸びる。おしゃべりだったのよと叔母。交通事故だったのよと俯く〉
 ちがう!これはぼくの母親だ。


 たとえば、こんな噂。
「ねえ、知ってる?」
「ん?」
「悪魔を召喚する儀式ってのがさ、流行ってるんだって」
「はあ」
「それをさ、お姉ちゃんの友達がやってたらしくて」
「なんつーか……日本なのに、悪魔?」
「知らない、そんなの本人に聞いてよ。ともかく、悪魔の召喚なわけよ」
「なんかどっかのRPGみたいな」
「わりとそんな感じのことするんだって、お姉ちゃんによると」
「へんなの」
「でさ、なんかすごくひどいめにあったって、泣いてたの」
「その友達が?」
「いや、お姉ちゃん」
 血を見るのはとても恐ろしいことで(悪魔召喚の儀式には召喚者の血液が必要なのだという!)、今でもそうなのだけど、昔はもっと恐ろしかった。泣きわめく、頭を撫でられる、上を向くと太陽がまぶしい。母とのお出掛け。転んだぼく。なにかが迫ってくる。悪魔は目に見えないという。


 そして、そう、母親だ。
 放課後。ぼくは帰り支度をして、窓の外を眺めていた。曇り空のなか、明るくふちどられた雲の端から太陽が現れる。隠れていた太陽が顔を出し、教室がぱっと明るくなる。忘れていたものが、はっきりとした輪郭を持ち、そして、はじけるように、
 母親。
 同級生たちの各々が自分の母親について知っていることと比べれば、ぼくの母親に対する記憶はひどく少ない。一緒に暮らす叔父と叔母からは小学校に入学する直前に交通事故で亡くなったのだと聞かされていたし、ぼくはそれを別段疑いもしなかった。おぼろげではあったけれど、彼女の葬式に立ち合った記憶もあった。小学校に入ってからしばらくは彼女の普段の姿が、振舞いがどんなものであったかを思い出すこともあった。
 それでも、歳を重ねるにつれ母親を思い出すことなど減っていく。彼女とぼくとが世界のほとんどを占めていたあの頃とちがい、中学生になったぼくの世界は、クラスの同級生や教師たち、アニメのヒロイン、空にうかぶ惑星やたくさんの銀河のこと、小説の主人公や脇役たち、母親を思い出し話す叔母の悲しそうな顔、河原の草むらに捨てられたエロ本、鳶の鳴き声、たくさん、たくさん、たくさんのもので占められてしまったのだ。
 そうやって、ぼくの母親に対する記憶はすこしずつ薄められ、すこしずつ変わっていった。姿かたち、言葉、すべて、変わっては消えまた顔を出す噂話のように。
 だから、
 ぼくの記憶が彼女にちかづいてゆく、彼女がぼくの記憶にちかづいてゆく。
 母。


 見つけなければならない。ぼくは、死んだ母を、もういちど、見つけなければ、ならない。


 帰り道はいつものとおり。たいして長い道でもない。右へ曲がり、左へ曲がり、横断歩道を越え、坂を上って、すこし下って、その先の一軒家。犬を飼っている家は四軒で、大きい犬、小さい犬、小さくて毛むくじゃらの犬。最後の一匹は横断歩道を渡ると鳴き声が聞こえてくる、中くらいの犬。公園と坂道と道路に並行する線路と電線、田んぼ。
 もうこんな時間だ!夕焼けはいつのまにか遠く、空の反対側にはもう星が見える。学校を出ると細い道、二回曲がると大きな道に出る。走る電車を横目に、ものすごい雨が降った、昨日のことを思い返す。友達と二人、あいつはぼくを傘で殴りつけ、そのあとは一人で帰った。一日かかってやんわりと頬の痛みを受け容れ、そして今日、この時間。
 ざらざらと、校庭の砂を踏む。今日がその日だと分かって。ずっと前に擦剥いた膝の傷痕はいまでも蚯蚓の形をして残っている。ちくちくと、風が煙たい。視界が滲む、アスファルトを踏む。望めばきっと現われる。剥落する壁を横に、その先を右に。水溜りは消えて、ぼくはずんずんと進む。田んぼが向こうに広がり、朽ち果てた一軒家、一人息子に殺されたのだと聞いた。道路と電柱と瓦と雨樋と有刺鉄線と用水路の記憶が呼び起こされる。彼女こそぼくの。
 右へ曲がると細い路地、両側に家々が迫る。むこうから、母と子が、こちらへと、母の首から上は見ずに、それではほんとうに生きているのか分からないのだと、ぼくが考えたのか、目の前の女が言ったのか、生きていなきゃ今のあなたはいなかったと、ぼくが考えたのか、目の前の女が言ったのか、ずんずんと進む。自動車をその先に見て、彼女たちは背後に消える。ぼくは路地の右端、左折。もう左の目にも人影は映らない。
 海の向こうの国は真っ昼間だというのに、この道にはもう街灯が点っているというのはおかしな話だと思う。歩道がないものだから、ぼくの右腕をかすめんばかりに自動車が走ってゆく。電車の音、たくさんの顔が見えた。同じ明るさの空の下にいる。これだけの人々の意識が集まれば何だって現実のものになるだろうし、お母さん、海の向こうにも現実になった何ものかが居るのかもしれない。ぼく一人では。信号がアスファルトを照らすほどに暗い。
 Y字路に差し掛かったところで頬の痛みを思い出す。カーブミラーに映る自分の顔、皮膚の内側に流れた血は青黒い痕をまだ残している。ポケットから手を出し、持ち上げ、頬をごしごしとこする。痛みが増す。自動車がまた二台(通り過ぎた後に気づく、音が耳までしか届かない)、向こうの車線にはもう一台(目は見えるようだ)。母の血がこの身体の中に、頬の内側に、流れ出さずにいる。血を見るのは恐ろしい。
 信号が赤から青に変わるのを待ち、横断歩道を渡る。すっかりくたびれてしまった!そろそろと予感がする。電柱をひとつ、ふたつと数えながら、ひんやりとした感触をぼくは楽しんでいるらしい。思い出せるのは触覚だけ。手、手、手、手、手。しがみつくぼく。足の下、地面の傾きが不愉快だ。手、手、手、手、手。お母さん。ぼくの手はまだ暖かい。
 お爺さんとすれ違う。こんばんは。口の動き。バス停ですれ違う。街灯でできた陰影が通り過ぎる。坂のてっぺんが見えてくると、その先に星がいくつも現れる。ひとつひとつがぼくたちひとりひとりに。星座をつくって。塀の向こう、窓から光が漏れ、ぼくの邪魔をする。自動車のヘッドライトが道を照らし、ぼくの邪魔をする。もうすこし。もうすこしで思い出せそうなのに。もうすこしで見つけ出せそうなのに。


坂のてっぺんから見下ろす。
この先のT字路を左に曲がればぼくの家だ。
左には公園の入口、木々
が茂り金網にからみつく。


 彼女はそこにいた。
 座って、シーソーのまんなかに、すべり台の、寄り掛かる、ポールに、黒くて長い髪、藤棚の下を歩く。やっと現れて。スカートが揺れたかと思うと、突然風が吹き、いままで忘れられていた聴覚がいちどきに呼び起こされる。自動車のエンジンが響き砂を踏む彼女の足音星が瞬き犬が吠える「こんばんは」テレビと包丁とカレーの匂い、そしてかん高い風の鳴き声。目の前に菫色のカーディガン、右腕があるはずの部分、ひらひらと風に靡く、地面に染み込んでゆく血は黒くこの目に映る、憎んでいた母を、つくりだしたこの街の記憶で、動かずそこにいる、ぼくは突き飛ばしたんだ、あのとき、血液が蚯蚓のように這いずり皮膚の内側を犯す、息ができない、恐ろしかったんだ、こうなるとは思っていなかったんだ、膝から崩れ落ち、ぼくは射精する。空を見上げる、星のまたたきを背に、母の記憶と交わる。