符号長に体を張れ

 たとえばなにか比喩めいた物言いをしたいと考えたなら、「木」を試してみるといい。他のあらゆるものと同じく、「木」は属性に富み、きっとあなたの言いたいことをうまく表現してくれる。白樺の木がある、赤松の木がある、木には根があって、幹があって、枝があり、葉がある。根は水を吸い上げ、葉は光を浴びる。同じ形が同じ形のその先に、枝は体に絡まり、幹たるあなたは動けない。


 兄は父の葬式に来なかった。通夜のあいだじゅう母が泣いていたのはそのことが原因だったのかもしれない。もちろん、父との別れが辛いという、ただそれだけのことだったのかもしれない。母は兄のことなどとうに諦めていたのかもしれない。それでも電話に出るくらいのことはする兄だった。「そうなんだ」としか答えなかった、そんなのいつものことだしねと、母は泣きながら言った。私からの電話に応じてはくれない。家から電話してみても、私の声が聞こえたとたんに切ってしまう。最後に兄と喋ったのはいつのことだったろう。そのときだって、取り立ててなんの話をしたわけでもない、兄の幼馴染で私もよくしてもらったお姉さんが結婚したことについて、さいきん買っておもしろかった漫画の話、そんなものだったはずだ。兄妹仲は悪くなかった。歳の差が五つもあったせいで目立った喧嘩をしたこともなく、だからといって世代が違うというほどでもなかったから、それが幸いしたのだろう。――兄妹の仲が悪くないことがほんとうに幸いだったのかどうか、ただ面倒ごとが少ないというだけのことかもしれなかった。通夜が明け、葬儀がはじまってから、母は一度も泣かなかった。「ようやくあの子供っぽい人から解放されたわ」と笑っていた。それは強がりだったのだろうか、梅雨が明け、ずいぶんと蒸し暑い夜があった。
 壊滅的な期末試験の結果からようやく立ち直りかけていたころに四十九日がやってきて、私はまた母のもとへと戻る。とりあえず座った仏壇の前で、父の戒名がふさわしいものなのかと五分ほど考えた。もはや生前の彼の姿が思い出せなくなっていたから、すぐにやめてしまった。ほんとうは私がしなければならなかったことの数々を、母がすべてやってしまい、この人はこんなに要領が良かったかと、自分がまだこの家に住んでいた頃のことを思い出そうともした。それも思い出せず、やはり放っておいた。そんなふうにして法事も終わり、親戚たちも帰り、母と二人きりになってしまった午後十時。こうして大学生になるすこし前から苦手になった距離感だった。「お兄ちゃんに電話してみようか」と母。「……あれから電話してないの?」「あんたが帰ってきたときにしようかと思って」「どうせ私が出たらすぐ切っちゃうんだから意味ないって。私のことなんか気にしなくてもよかったのに」――それでも、と言って母は受話器を取り、番号を入力する。私はそこに居てはいけない気がして、母の眉間の皺を振り切って自分の部屋へと戻り、ずいぶんと長く放っておかれたままの黴臭いひろがりのなかで、それでも私は耳をそば立てた。蛙の鳴き声の向こうに遠くの電車の音が聞こえた。しばらくして、母が部屋の扉をたたく。
 兄と話したのだそうだ。どうして部屋に籠ってしまったのかと母は不審げな顔をするけれど、気まずい理由ならいくらでもある。ましてや私が電話に出ようものなら、声さえ聞くこともできず、すぐに切られてしまうことなんて分かりきっていた。そんなに話をさせたければ無理矢理にでも受話器を渡しにやってくればよかったのに。「そんなことより、なんの話したの?」と私が尋ねると、しばらく口ごもった後でおかしなことを言う。すべての、おおよそ四万五千はいるすべての父を殺さなければならなくなった、なんてことを、相変わらず不思議そうな顔で、それでも、珍しくもなさそうな顔で。申し訳程度に、ちょっと心配ね、などと付け加える。「だからちょっと、あんた、お兄ちゃんを探してきてくれない?」――母はそう結論づけたらしい。「……ええと……四万五千?」「四万五千らしいよ」「そんなにいるの?」「お兄ちゃんが言うにはね。お母さんもそんなに多いなんて知らなかった。そんなこと、あの子がどこで知ったのかは分からないけど、とにかくそうなんだって」「それほんとなの?」「お兄ちゃんはそう信じてるみたいね」というわけで、とにかく心配なのだ、あとはよろしく、もう寝なきゃね、今日は疲れたし、と母。「お金は出すからね」と扉の向こうから声が聞こえる。
 あれから一週間だって経っていない。遠い遠い都市で、私はもう私でなくなってしまった。すべては、兄のせいだ。
 四万五千の父がいると信じたわけでも、それを兄が殺すと信じたわけでもない。父より他に父がいるはずもなかったし、あの兄に人を殺すような真似ができるとも思えなかったし、すべてが母の狂言にちがいなかったけれど、だからといって放っておくこともできなかった。あなたは母から歪められていると兄に伝えたかったのか、人を殺そうとする兄を止めたかったからなのか、それとも父に会おうとする兄の傍にいたかったからなのか。兄を探しに行った理由はなんだったのか、記憶だけを保ち変化していく私だけがここにいるならばこの都市にどんな名前をつけようが構わないのだと知っていたからではなかったろうか。


 翌日。
「四万五千だなんて、そんなの聞いたことないわ」と呑気な声で話す母に問い質しもせず、気晴らしの言い訳とそれなりの不労所得を手に入れたと嘯いて家を出たものの、どこの都市へ向かうべきかと考え込んだ。そもそも、他の都市へ行くのが好きな人間なんてそうはいない。影の長さが違ったり、重力がちょっとばかり違う都市ならまだいいけれど、時間の感じ方が違ってなんかいれば後々の人生に響いてしまう。一度都市を出てしまえばそれっきりで、完全なもとの都市には二度と戻れないこの宇宙というやつが、私は嫌いだった。あの地下鉄がずっとずっと鎖のように繋がった先にある都市、あるいは繋がらない都市では、今だってひどい都市間戦争が繰り広げられているにちがいない。この都市で地下鉄が実用化されて二十年とすこし、地下鉄の車掌が家に帰ってみたら配偶者も子供も顔がまったく違っていたなんて都市伝説さえ囁かれる。――そんなわけで、できるだけ近場から、地下鉄に揺られて数十分、隣の都市から回ってみるのが得策だろうと、私は歩きはじめる。ここには私の叔母が住んでいる。バスに乗り、記憶を頼りに彼女の家を探す。会うのは父の葬式以来だった。あのとき見た叔母は見たこともない泣き顔で、彼女の笑った顔しか知らない私には別人のように思えた。そのせいなのか、久しぶりだなと素直に思う。
 葬式にしか顔を出せず申し訳なかったと詫びる叔母に、そんなことより兄を探しているのだと、四万五千なんて数字はおくびにも出さず、「……ってことなんです。ごめんなさい、突然訪ねてきちゃったりして」「いやいや、でもおかげで姪っ子にまた会えたわけだし。でもねえ、お兄ちゃんの居場所、私にも分からないんだよね……ていうか、こないだのお葬式のときにはじめて知ったのよ。ごめんね」「いえ、こっちに来てるかどうかも分からないですし、来てたとしてもこの都市だってけっこう広いから。とにかくなにか手がかりがないかと思って来てみただけなんです。なんだかごめんなさい」とかなんとか。そうやってしばらく実りのない雑談、ついには昔の兄の話なんてしてみると、突然叔母は思いだしたように、くくくと笑った。「そういえばね、お兄ちゃんが大学生のころ付き合っていた女の子がこっちに越してきてるのよ。もしかしたらあの子なら知ってるかもしれないな」「えっ、あー……えっと、えっ?」――驚いた。「そんな人がいたなんて初めて知りましたけど……まあいてもおかしくは……ないといえばないかもですね。っていうかたぶんお母さんも知らないんだろうなあ」「そうなんだ?こんど会ったときに言っておかなきゃね」「でも、なんでそんなこと知ってるんですか」「職場の新人さんでね、いろいろ話聞いてたらそんな感じらしくて」
――と、夕食までご馳走してもらった叔母との会合を一段落で終え、春香さんの連絡先を手に入れたものの、どんなふうに電話したらいいのか分からなかった。いったいどんな言葉ではじめればいいのか。昔の恋人の妹がいきなりやってきて、お兄ちゃんはどこにいますかだなんて尋ねる閾の高さを叔母は分かっているのだろうか。はじめから教えてくれなかったのはそのせいだったのだろうか。それでも伝えようと心変わりした原因が、あの会話のなかにあったのだろうか。兄の思い出を話す私はそんなに不安げだったろうか。ともかく電話してみればいい、それだけのことだったのに、明日にしようと地下鉄に乗り、帰ってくると、風が生暖かく湿っぽかった。私の都市が失われてしまったというわけだ。あの都市とはまた別のこの都市のあの部屋とは違うこの部屋で一人、私はお好み焼きを焼いた。こうして引っくり返すのに失敗している私はこの宇宙に一人しかいなかった。きれいに焼けた私が他にもいるのかもしれないと気がついた。兄にだってどうせ殺せはしないのだ、そういうことになっているはずだった。はずだったのに。殺せる兄だってどこかにいるのかもしれない、それは私の兄なのだろうか。だから私は深呼吸をひとつ、ボタンをぽちぽちと押す、嫌な嫌な空気を想像しながら、きっとそんなものは一瞬で終わってしまうけれど、はじまったばかりの探索行が途切れ私の時間が侵食されることを恐れて。呼び出し音が鳴る。もしもしと、それほど高くない、すこしだけ鼻にかかったような声がする。兄の名前を告げ、自分はその妹で、叔母から話を聞いて、こうして電話しています。相手は私のことを知っているようだった。恋人だったなら私の話くらいはしていたのだろうと、兄と顔のない女性とが二人喫茶店で喋る姿を想像する。私はあなたのことを知らないのに。「ええと、いきなり電話してごめんなさい。今日はちょっと、兄のことで」「あの人がどうかしたの?」――説明しなければいけないのに、言葉に詰まってしまう。兄が、父を殺すって言って、いなくなってしまったんです、どうにか言葉にする前に、いくらかの空白の時間。想像上の店内で食器がぶつかる音がする。遡及的に耳の記憶が蘇り、同時に電話からの声。「ねえ、どういうこと?」
 どういうこともこういうこともなく、文字どおりの話であると、私はむっとした声を装って答える。「冗談言ってるわけじゃないよね?」と彼女はさらに食い下がる。冗談に聞こえるのだろうか。たしかに冗談かもしれなかった。まるでいつものことだとでも言いたげな口調で母が私に伝えた話を、もつれた舌で早口に説明する。「殺すんでしょ?ってことは、殺人犯になっちゃうってことでしょ?」――たしかにそうなんだろう。でも、既に死んでいる人間を殺すことができたとして、それがほんとうに殺人になるのだろうか。「うーん、わかりませんけど……だって、もう死んでるんですよ?」「えっ?」「もう死んでるんです。このあいだ死んだばかりなんです。なのに、別の都市にはまだ別の父がいるって。それを」「……殺すって?」「そうです」――しばし無言、そして「とにかく、一度会って話そ。明日」。その夜は、遅くまで隣の部屋がいやにうるさかったことを覚えている。
 何もしなかった一日の終わりに地下鉄の出口で待ち合わせた春香さんは、臙脂色のちょっと派手なバッグを片手に、私でも持っているような安っぽいコートに身をくるまれ待っていてくれた。派手な顔ではないけれど、派手な化粧ではあった。この人が兄といっしょに歩いている姿なんて想像できない。「よく行くカフェがあるから」と連れて行ってくれた先は煙草の臭いでいっぱいで――そんなふうに、私はひどく混乱していたのだと思う。彼女は控え目に言っても、いい人だったはずなのだ。「こうして聞いてみてもやっぱり意味わかんない。まずさ、四万五千……だっけ、それ、どういうことなの?」「分かりません」「ぜったい嘘言ってるか、頭おかしくなっちゃってるよね」「分かりません」「だから心配なの?」「……そういうわけでもないんです。そりゃ信じたわけでもないんだけど……だって聞いたことないですよね、他の都市に同じ誰かがいるとか、そんな話」「だよね。だったらやっぱり」「でも分かんないんです、だったらなんでお母さんがあんなに、あんなにすんなり」「うーん……お母さんが嘘言ってるのかもしれないしね。でもそんなぜったいありえないようなこと言ったって」「ありえないんでしょうか」「ありえないでしょ。さっきも言ったけど、聞いたことないもん。なのに、なんで信じてるの?」「いや、だから信じてるわけじゃなくて」「信じてるんでしょ?」
「違うんです。でも、兄って、そういう人じゃありませんでした?みんなわかってるんですよ、狂っていようが法螺を吹いていようがが、どちらも兄に似合わない。母がそんな嘘をつく理由もないのに、なにか知っているはずなのに、話す気もない。だから私なんかが一人で探す羽目になっちゃったんです。私が行きたかったわけじゃない。でも行かされちゃったんです。ねえ、知らないんですか?春香さんは知らないんですか?大学生のころ兄の恋人だったって聞きましたけど、それなのに、兄のそういうところさえ知らないんですか?」
 結論から言ってしまえば、話はまとまらず、彼女も私と同じくらい混乱しているようだったけれど、とにかく兄を(元恋人を)見つけなければならないという点だけは一致したから、何か分かったら連絡し合いましょうということになって、別れた。私も彼女も探したくなんてなかったけれど、見つけようとしなければならなく――なってしまったのだ。こうやって思い出した会話はまったく事実を写してはいなくて、私の彼女に対する想いのせいで形が歪められてしまったものだけれど、それでも私は彼女のことをいい人だと思う。いい加減しつこいだろうか。嫌いな人なんていてほしくない。そうやって、駅への帰り道、見たことのない背の高い花が電柱の根元に生えている。周りはもう暗くなっていたから、まるで花にスポットライトが当たっているかのようだった。惑星というものはここにはないから、宇宙というものはここにはないから、平坦な地上しかなく太陽が昇っては沈むから、私の兄の頭上に、この都市の誰も見たことのない太陽のようなもの、星のようなものの光が今まさに降り注いぐ姿を思い浮かべ、似合わない姿だと、とぼとぼと歩く。あんまり感傷的で俗っぽい陳腐な陳腐な想像しかできなくて悲しくなる。駅に着いて、電車を待っているうちに眠くなる。星のある都市に帰りたかったのだ。


 それから三日間はなんの手掛りもなく――というか、探すつもりもなかったのだろう。これは私にとって生まれてはじめての冒険だったんだよ、お兄ちゃん。だって、私はぬくぬくと育って、ようやく二十を過ぎたばかりで。


 四日目の最終電車を寝過ごして、着いた先は私の知らない都市だった。この三日間のに急激に増えた行き来が原因か、私にとっての地下鉄の接続先が変わってしまったらしかった。戻る電車がないことを確かめて、電話が通じないこと言葉が通じないことを確かめて、そうしているうちにすこしずつ落ち着いて、仕方がないからと階段を上って駅を出て。歓楽街らしき通りの端を歩き、駅からどんどんと離れてゆく。問い質すためでも殴るためでもなく、ただ恐しくて兄の姿を探してしまった自分を誤魔化すように古書店らしき小さな建物の扉を開くと、私を睨みつける老店主の視線を感じる、まだ死んでいない祖父だと私は気づく。彼は父に殺されずに済んでいるだけなのだろうか、ついに父よりも生き延びてしまったのだろうか、ここで待っていれば私も兄と同じことを成そうとする父に出会えるのだろうか。あの東洋人が、私の祖父であるところのあの東洋人が、これら古びた本たちのアルファベットを追うことができるというのが、いかにも不思議なことのように思えた。私は古びた茶色い背表紙の本を手に取る。「かくして組合せ子によって眠ることは――しかし既にここに現れ――それが意味するのは――そして眠り――ものを食わず孕む帰納的可算な――しないほうがよかったはずの――――」
――当然のように読むことなどできず、兄が既に父に会っているはずもなければ、あの老人が祖父であるはずもなかったから、すぐにその書店を出てまた歩いた。光が欲しかった。こんな都市で通用する種類の金など持ち合わせていないはずだったから、どこかに泊まることもできず、とにかく歩いてゆくことしかできない。そうやって何も考えずにずっとずっと歩いて、歩いていたら、歩いていたら、ただただ頭を空っぽにするのだということだけを考えながら歩いていたら、交差点を渡り切ったとたんに、いちどきに空が白んだ。番地または方角によって時刻が決まっている都市なのだろうと考えた。高校の地理の時間にそんな都市のことを習ったおぼえがある。もちろんほんとうに夜が明けたのかもしれないけれど、私の都市とおなじように時間が流れているというのなら夜が明けるような時刻まで無心で歩くことなんて私にできるはずもなく、そうでなければ時間の感じかたの違う都市だということになり、そんな恐しい都市が寝過ごす程度で辿り着けるところにある/うまれるはずもないのだから、あの高校の地理の時間の記憶が正しかったのだろうと結論づけた。あるいは、私の希いを叶えてくれる都市だったのかもしれなかった――兄は現れなかったけれど。
 私は駅を見つける。人がどんどんと吸い込まれてゆく流れに乗って私も前へと進んでゆく。もちろんその地下鉄がどこへ向かうのかなんて分からない。また言葉も電話も通じない都市だったらどうすればいいのか。せっかく春香さんが「また連絡する」と言ってくれたというのに、いつまでも電波の届かない場所にいては私が兄の創作を放棄したのだと思われてしまうのではないだろうか。行き先がどこなのか、私にはそれを読むことができない。満員に近い電車のなかで一人の老人と一人の男性にぶつかり、男性は私に謝るような素振りをするも、老人はあの老店主のような落ち窪んだ眼で睨みつけてくる。老人どうしの区別がつかなくなっていた、みな祖父のように思えた。目を逸らした先には吊革が並び、ゆらゆらと揺れている。そうやって二駅過ぎ、さらに三駅を過ぎたその次の駅でたくさんの人が降りて、ようやく座席に腰を下ろす。ずいぶん長いこと歩き、立ちつづけていた気がする。睡魔が襲う、きっとまた寝過ごしてしまう、別の私が自身の家に向かって地下鉄に乗る予感がする。私の移動によって都市はなんらかの影響を浮け、それはきっと他の誰だって同じはずだった。しょせん人が頻繁に移動できるような都市どうしならばそれらの差異は微々たるもので、あまりに大きな変化の種はその数の力のおかげで芽を出さずに済むのだと不可逆論争は結論づけた。私たちすべてには意思というものがあるけれど、それの集まりであるところのその大きな人間の動きなんてものはさして複雑な離れ技をやってのけるわけでもなく、簡単な規則にのっとった動きを繰り返すだけ、いったい終わりはあるのだろうか。兄の創作には。
 夢を見た。私は自分のアパートの部屋にどうにか帰ってこられたようで、そこには四万五千分の一の父がいる。「お兄ちゃんと会わなかった?」――夢の中でさえ私は使命を忘れない、真面目な人間に育ったと、目の前の父に褒めてもらいたかった。「何を言ってるんだ、お前は一人っ子だろう」と父は言う。彼のもとに私の兄が生まれることはなかったのだ。「だから早く家に帰れ」と。私はワンルームのキッチンへと後退りし、動かない父の口だけが動き空気は震えない。包丁を取り出したところで目が覚める。地下鉄に乗っていたはずが、車両はいつのまにか高く乾いた、険しい山脈に見守られていた。コンパートメントには私の他に誰もいない。小綺麗な列車だった。座席に横たわっていた。何時間も何日もかけて私は兄の仕組んだとおりに動き、兄自身と対決している。自分の頭で考えさせてほしいのに、それも叶わず、言いなりになって、機械のように動かなければならないことがたまらなく不快だった。そこで電話が鳴る、まさかこんなところに電波が届くなんて思わなかった、それだけ遠くまで来てしまった。電話の主は春香さんだった。
「あれから連絡とらないでいたら、昨日の晩になって急に心配になってきちゃって、何度か電話かけてみたんだけど、繋がらなくって」「ああ、ごめんなさい」「いいよいいよ、大丈夫だったみたいでよかった。今どうしてるの?もし近くの都市にいるなら、お昼休みのついでにご飯でも食べない?あなたの叔母さんにも今日やっと話聞けてね、ちょっと分かったことがあるから」「あっ、ええと、ごめんなさい、今ちょっとそっちにいなくて……ええと、どこだろう、すごく真っ直ぐな線路がつづいてて、荒野で、遠くに高い山が見えて」「どこか違う場所に……?……ああ、そうか、そうなるよね。もうそうなっちゃうかもね、だったら、きっとそこは――言葉の意味をとることがだんだんとむずかしくなってくる。私の都市の言葉とまったくおなじだったはずのものが遠くへ離れていく、固有名詞だけが剥がれ落ちずについて来てくれる。彼女の声がして、それが行き先の都市の名を告げたように思えた。それだけだった。
 小学生のころ、スパイごっこをしたことがある。かつて遊牧民族が暮らしたこの土地は陰謀の色彩を残し、たった一段落でずいぶんとみすぼらいなりへと変化してしまった列車の、斜め前方の席から聞こえてくる会話はいくらなんでも無防備に過ぎやしないだろうか、それともこの土地の言葉は私の聞くことのできる彼らの言葉とはまた違っているのかもしれない。私だけがそれを聞き分けられるのだと、彼らは知っているのかもしれない。時代遅れのピストルを隠し持っているのだ。「その原始の国じゃ、野獣の掟が支配しているのでは?財産権なんてものは存在せず、総ては戦いに委ねられて、勝者のものになる。栄光も生命も権力も財産も、全部ですよ」「かもしれんですな。しかしヨーロッパで、われわれは文明化されていますから。幸いな事にね」と、少年がやってきて私の引用を止める。「二両目の前から三ばん目、右の窓側にいる女の人に渡してくださいって言われたんです」そう言って少年はすぐに消え、窓から強い風が吹きこむ。どんな人間からの言伝であるかを聞く暇もなかった。何の変哲もない茶封筒、列車の走っているこの都市には不似合いなそれは、兄ではなく父からの伝言だった。特徴的な丸っこい文字はほかの誰のものでもありえない。父が居間でノートをとる姿を思い出す。葬式の日、あのノートの中身を見ることだってできたはずだけれど、どうしても躊躇われて最後には燃やされてしまった、永久に灰へと、時間の矢の先へと散逸してしまった、父のくだらない思考の象徴がこんなところまでやってきて、復讐でもするつもりなのだろうか。それは私の父の書いたものではなくて、私の別の父が書いたものなのだから、けっきょく私の父の思考は失われたままのはずなのに、燃え上がったノートの秘密を告げるものだという考えに囚われてしまう。知らない言葉とまた別の知らない言葉が混じりあった乗り心地の悪い列車のなかで、私は封筒を開く。
 父からの手紙にはごく短く、兄が自分のことを探しまわっているようだが見つかることはないしましてや殺されることなんて絶対にないから安心して家に帰り母にもこの手紙を見せるんだ、といったことがごく小さな文字で記されていた。これもまた夢なのだろうか。こうやっていつのまにか知らない都市から知らない都市へと移動しているのは、あなたが見つからない歩幅とかましてや母が何を隠したまま言う兄のことが心配だという言葉とか、そういったものが理由ではなくて、ぜんぜんなくて、一度はじめてしまったものは何らかの決着なり中絶なりを遂げてしまってからでなければ終えることはできず、それまでは常に不完全なまま、自分の脚で歩くのではなくこうして列車に揺られ進んでいかなければならないからだ。母も叔母も言いなりになっている、晴香さんだってそうだ。あなたの手紙は決着にもなんにもなりやしないのだからと、手紙を千々に破いて、いつの間にかまた地下に潜ってしまった列車の窓から虚無へと捨てた。ただ、紙片をひとつだけポケットに入れておいた。地下を通るたびに私自身が変容していく、異邦人にはなれない。
 そして列車は停まり、乗客はみな降りてしまった。埃臭い席に座ったまましばらく待ってみるも再び動き出す気配はない。仕方がないから私も列車を降りる。改札のない駅(のようなところ)を漫然と出て、行くあてもないから広場をうろついていると、タクシーの運転手らしき男がわらわらと集まってくる。私には彼らの言葉が分からなかったから、「何を言ってるの」とそのうちの一人を見つめて言うと、男たちはみな驚いた顔をして、べつの言葉で喋りはじめる。こんどは私にも分かった。私は旅行者ではないらしかった。乗れ、ホテルへ連れて行くからと。ここに居続けてもどうすることもできないと思ったから、最初に話しかけた男のタクシーに乗ることにする。最高級のホテルに連れて行ってやろうと彼は言う。もうずいぶんとベッドで眠っていない、そんなふうに感じた。これだけ都市を移動してしまえば時間に意味なんてなくなってしまう。金などないはずだったけれど、何も言わずに座っていた。いつの間にか現れた広く金色に光る湖の横をとんでもない速度で走る。ほどなくして周りがだんだんと建て込んできたから、そろそろかと聞くと、いいやまだまだだと運転手は答える。ここまで来てなにを恐れることがあっただろうか。それでも「もういいから降ろしてください」「いや、ここは危ない地区だから」といった問答があり、それでもいいからとにかく降ろせと、速度が落ちたところを狙って私はドアを開こうとする。彼はうらめしそうな顔でこちらを見て、わかったと言うようにメーターを指差した。財布を探って、知らない顔の描かれた紙幣を取り出す。そうして、釣りはいらないからとその場を離れる。私は一度だけ振り返った。彼は怒ったような、悲しんでいるような目でこちらを見ている、私を透かしたその向こうを見ていた。息を止めて、目の前の路地に入り、三輪の自動車が行き交う大通りまでまっすぐ進む。看板の文字は読めない、左右で声を張り上げている露天商の声を聞きとることならできるようだった。
 そうだ、私はベッドを探していた。泥の街路、この乾燥した地方の日没は一瞬で完遂され余韻めいたものはなにもない。原始的な照明のもと、巡礼者たちで溢れる街路を、まるで透明になったかのような女が、兄を探して歩く。私はそれでも、兄を探しているのだと自分に言い聞かせていた。鳥の翼のような吹き流しがはためいている。自分の発する言葉が伝わることを恐れ誰に話しかけることもできない。演説をする老人がいる。この都市で人は死ぬことがない。ただ消えるのみなのだと。すぐに別の誰かがそれを引き継ぎ、さらに次へと。おそろしく統率のとれた群集で、そのすべてが演説を引き継ぐ用意ができている。彼らはすべて何らかの役割を与えられ、それがめまぐるしく変わってゆく。みな老人で、顔の見分けはつかなかった。逃げるように目についた扉を開く――それはまた、いつかの繰り返しだ――小さな机の後ろに若い女が座っている。蝋燭の光と彼女のほかには誰もいない。それで私はどうにか落ち着くことができる。息を整えて彼女に話しかける。彼女は声ではない声をあげる。弱々しい獣のようなその声から私は彼女が唖であることを知る。彼女は宿帳と鍵を私に見せ、指を三本立てる。いちばん高額そうな紙幣を三枚取り出すと、彼女は首を横に振って私の財布を奪いとり、桁の二つほど少ない紙幣を三枚、いかにもこわれやすそうな抽斗に仕舞う。暗闇にむけて青白い不健康そうな左手の残像を描き私を導く。私は階段をこの足で上った。部屋に入ったとたんに電話が鳴った。受話器をとると、父の声が聞こえてくる。兄が自分のことを殺そうと探しまわっていたから、自分のほうから兄を殺したのだ、と、そこまで声がしたところで私は口を開いて唖のような声をあげるが、それでも父の声音は変わらず、あれはほんとうの兄ではなかったのだ、家に帰り母にもそう伝えるんだと続ける。そして声は電子音を残して消える。
 ほんとうに別の父、別の自分なんてものが、この都市に、また別の都市に、いるというのだろうか。あの都市で生まれた私と兄が、あの都市で生まれなかった父に(べつの四万と五千人のうちの一人に)声をかけられるはずがなかった。それは実際にはありえないはずのものなのだ。たとえばここで私の兄が部屋の扉を蹴破り侵入し、目の前の女をベッドに押し倒し、ズボンを引き剥がし、自身のベルトを外し、下着を脱ぐのに手間どり、震えながら待ち受ける女の濡れた陰唇に充血した陰茎をねじ込んだところで、私にはどんな影響だって与えることはできない。そうやって私の腹の上にのしかかる兄の体重を想像していると胸から喉にかけて熱い酸味がこみ上げてきたから、トイレに駆け込み、吐こうとするけれど、そういえば、私自身だったあの都市を発ってからかずっと何も食べていないことに気付く。私の中には胃液しか残ってはいない。
 そこで意識が途切れ、また朝がやってくる。便器に顔を預けたままで一晩眠ってしまっていたようだった。昨晩の吐瀉物が流されないまま、目の前に溶けている。だいたい何が小説だ、妹だ。彼女を犯す衝動なんてあるわけがない――叔母の水着姿が俺の最古の記憶でだというのは本当のことなのだが――そんなもの無理矢理作ってるに決まっている。分かっている、面白くもなんともないってことくらい、そのくらい分かっていた。物語として成就させることが最低限の礼儀なんだってことくらい、分かっているつもりだ。でも不可能だというんだ、結局のところ、なんにもならない。このあと妹は大陸を横断し、ドーバー海峡を渡ってさらに進み、チューリングのブロンズ像の横に座ってそれを舐めまわす。俺は銅像に成り代わって、喋ることもできず触れることもできず、ただ舐めまわされるだけだ。そして、それでもポケットの紙片を書き継ごうとしている。
 母が買い物から帰ってきた、もうすぐ夕食の時間だ。