大勢なので

全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直ぐに死を想うた。

——中島敦「山月記」

…………

 突然父が死んだこと、それ自体はいいのだけれど、そのあとの実家の整理というのはずいぶんと骨の折れる仕事だった。こんなことのある前にやれることはやっておいてくれと伝えてはいたし、実際それなりにやっていた——やろうとしていたらしいことも、もちろん見聞きしていた。母のほうはまだ健在だから、そちらにだってある程度は任せられる。近くに住んでいる妹のほうがまだできることもあろう。ただ、だからといって、長姉である自分がまったくノータッチというわけにもいかないものだ。だから、二週間ごとに朝早くから新幹線に乗り、在来線に乗り継いで、実家に帰る、そんなことを三か月ほど続けるはめになった。それでも三か月かそこらで終わる様子は微塵もなく、いまだに目処もつけられないのが現状だ。
 そもそもの話、以前から決めていたことではあるが、どちらか片方が死んだら、残ったほうにはもっと便利のいいところへ引っ越し、一人暮らしをしてもらうつもりではあった。だからやれることはやっておいてくれと頼んでいたわけだ。とはいえ当然のことながら、人間いつ死ぬかなんてわからない。死んだ父自身だって驚くに違いないと考える程度には突然のことではあって、どこまで準備が済んでいたのか知らないが、少なくとも、もうなにもしなくてもいいなんていう理想的な状態からほど遠かったことはたしかだ。人間が死ぬにあたっての十分な準備なんてものがありうるのかどうかもわからないけれど、いずれにせよ、葬式が済んでもろもろの手続きが終わってみれば、まったく整理がついていないとしか見えない家が一軒残されていた。これは時間がかかると肚を決めたのもそのときだ。
 ただ一方で、残された当人が家を離れたくないと言いだすのではないか、そちらを改めて説得するほうが骨ではないかという予想についていえば、こちらは杞憂に終わったといえる。説得のためのあれこれを妹にも仕込んでおいたというのに。そう、母のほうは存外に乗り気だった。どんな部屋を借りてどんな内装にしようかなどと、帰るたびに違う構想を聞かせてくれる。どうにも楽しみにしているらしかった。この調子ではいつになるかわからないとはいえ、先々の楽しみがあるのは悪いことではなかろう。伴侶のいなくなった空白を埋めるとはこういうことかと、他人ごとのように思う。実際、他人ごとなのだ。だからこんな通り一遍の思いのやりかたしかできないのかもしれない。
 ともかく、母の気が変わらないうちに、必要なものとそうでないものの仕分けを少しずつでも進めなければならない。それでも、証書というか、なんだろう、大事そうな契約書類といえばいいのか、そうったものを探してとりまとめるのは後回しでよかろうということにした。それこそ最初にやっておかねばならないことではないかと言われればその通りなのだが、最低限は死ぬ前にどうにかしてくれていたはずだ。ともかくそういうことにした。ほんとうのところ、面倒なことは後回しにさせてほしかった。だからまずはいかにも無難な遺品整理——というほど大げさなものではないけれど、まずは使っている姿を見た覚えもない趣味の品々からはじめ、この世のどこにも省みる者のいなさそうな蔵書の整理だってとっとと捨てた。そして、それくらいのことにさえ三か月を要することになった。そういうわけだ。
 ともあれ、そこまでは前回で終わった話。片付けやすく見えたものはいいかげん片付け終えてしまったと見え、次あたりにはそろそろ大事そうなものとやらをこわごわ漁っていかねばとは考えていた。そんなふうだったから、意気込むやら意気をくじかれるやらしながら新幹線に乗り、在来線に乗り換えたのが今回の帰省で、家に着いて居間のソファに座り込んでしまえばいよいよ腰が重く、翌日には戻らなければならないというのに、気ばかり焦ってしかし身体のほうは動いてくれない。母の淹れた薄いコーヒーを飲みながら、母の語る次なる構想を聞き流しながら、ソーシャルゲームをぽちぽちとやってしまう。犬が飼えるところに引っ越したいのよね。高くつくよ。見た目にはいつもの正月と変わらないけれど、父がいないことと上の娘の気が焦っているところは違っている。それから毎度思うのだが、居間のソファはちょっと柔らかすぎる。いったいなにをしているのだ、とは思う。
 だから、そのままでいるわけにもいかないのだ。いつのまにかコーヒーは冷め、母の次なる構想は二周目に突入していた。妹も夕方から参加すると言っていたから、せめてはじめたふりくらいはしておかねばなるまい。そうでなければ、いったいなにを言われるやら。晩飯に店屋物を奢れなどと言いつけられかねない。そして場を収めるために、はいはいと聞いてしまうだろう。きっと寿司だ。これだけ頻繁に新幹線に乗る姉の手元に、どれだけの金が残っているというのか。せめてピザにしてほしいものだが、あいにく母はピザが嫌いで——だから向かうは離れの二階。父の部屋へと赴く。本棚は空っぽで、それがここ一か月ほどの成果だった。それを横目に、やる気の足しにする。今日はこの机だ。この抽斗だ。まだ手つかずだったはずだ。抽斗の鍵は前回机の上に控えてある。手はじめに漁るには手頃なはずだ。どうせたいしたものが入っているわけでもなかろう。やりますよ、やりますったら。
 そう思って一段目。銀行やらなんやらからもらったボールペンの山、ゆるんだゼムクリップ、鉛筆もないのに二つの消しゴム。たいしたもの、なし。こんなもののために鍵をかけるなと思う。二段目。二十年ほど前の写真週刊誌が二冊。どちらも同じグラビアアイドルが表紙で、いつだったかどこかのIT社長と結婚して、それから芸能界を引退したのだったか。捨てよう。その下に同じころの発刊と思しきアダルトビデオ雑誌が一冊。どうしてこんなものを後生大事にと辟易しつつ、当時はこんな雑誌もあったのだなとよくわからい感慨を覚える。捨てよう。ただし、写真週刊誌の間に挟んでおいてやろう。その下に一冊のノート。それなりに使い古されているように見える。なにかのメモだろうか、いや——きっと日記ではないか。こうやって故人の日記を見つけるというのは、まあ、よくあることなんだろう。捨てる前に中身を閲しておくべきではあろうが——とはいえ置かれていた場所が場所だから、母に見せる前に自分が目を通しておいたほうが、きっといろいろ無難にちがいない。だからひとまず、開いてみる。

…………

(インフレーションを認める理論によれば、必然的に)物理法則をおなじくする宇宙は無限にある。 たくさん あるんじゃない。 無限 にある。
 無限にあるとはどういうことか。そこで、無限に本が収蔵されているという、ある図書館を想像してみる(これは、かの有名な図書館とは必ずしも一致しないことに注意されたい)。わたしはこの図書館に、無限の本が収蔵されていることを知っている。そして、わたしの手元には《いま・ここ》と題された本がある。わたしはその本のなかほどを読んでいるところだ。おもしろい本だろうか? それともつまらない? 読むことさえ苦しい本だろうか。荒唐無稽かもしれない。わたしの手元のこの本は、幸いにもというべきか、とりたてておもしろいとはいえない、けれど嫌いにはなれない、そんな本のようだ(妻や子供たちは、わたしのことをどう思っているのだろう?)。

…………

 パパとママが深夜にいきなりたばたはじめてなんだろうと思ってたら、部屋のノックに真奈との会話を止められて、おじいちゃんが亡くなったとママが言う。ちょっとごめんと両方に言って、それから今日はおしまいと真奈に、こないだおじいちゃんがこっち来てごはん食べたときはぴんぴんしてたよねとママに言う。あれくらいの歳になるといつなにがあるかわかったもんじゃないからね。明日からしばらく学校を休んで通夜だの葬式だのに出るってことで、学校に行くよかましだし、ひさしぶりにおじいちゃんちの飼い犬に、シロに会えるなとは思ったけど、だからって嬉々としているわけにもいかないし、なにより真奈が珍しく遠征に付き合ってなんて言ってくれた約束を無期限延期にしなきゃならなくなって、また誘ってくれるのを待つのはちょっとつらい。それから充電器だけは忘れないようにとその晩のうちに準備をすませて、寝て、起きて、ドタバタしながらおじいちゃんちに来たのが四日前。
 四日間。パパはいつにも増して神妙な顔だし、ママもなんとか神妙な顔を作ろうとしてた。わたしはといえば、四日間ずっと真奈と話してばかり。二日目の夜、だからお通夜の最中に、おじいちゃんはどんな人だったのと真奈が聞いてくれた。わたしだったら、真奈のおじいちゃんが死んだからって、そのおじいちゃんのことを聞いたりしない。だけど真奈はそういう子で、だって真奈はわたしとはちがう。わたしは真奈の家ことをひとつも知らなくて、でも真奈はわたしのパパのこともママのこともよく知ってる。夜に家を抜け出して真奈に会いに行こうとしたのを見つかって、怒られたときだって、わたし以上にわたしの家のことを知ってるんじゃないかってくらい、パパとママの性格をよく知ってて、だから真奈の言うとおりにわたしは謝って、いまだにわたしにはよくわからないんだけど、なんだか切り抜けたっぽかった。やっぱり真奈はすごい。でも、愚痴っただけなのになにかを解決しようとするのは真奈の悪い癖だとも思う。わたしが真奈とずっと話してるのはそんなことのためじゃない。
 それでも真奈になにか聞かれるのはうれしいことで、だからおじいちゃんのことも改めて考えてみた。あっちの部屋の布団で寝ている、冷たいおじいちゃん。でも、何度も会ってるはずのおじいちゃんのはずなのに、うまく説明できる気がしなかった。陽気な人だったとは思う。訛りがきつくてなに言ってるのかわからないことのほうが多かった。お酒が入るとなおさらだった。だけど、どっちにしたって、笑ってうなずいてれば勝手に都合のいいようにとってくれるところは、実はちょっと好きだったかもしれない。そうやって考えたことの、どのくらいをうまく真奈に伝えられたんだろうか。
 で、そうやってもう四日目だ。お葬式だってもう終わった。真奈と話しているうちにおじいちゃんは燃えた。それからまたおじいちゃんちに戻って、そのあいだ骨壺はあんたが抱いときなさいってママに言われたからそうして、だから真奈とは話せなかったけど、戻って、壺をパパに渡して、それでも相変わらず神妙な顔と神妙な顔を作ろうとしている顔に挟まれて、あと知らないおじさんやおばさんに挟まれて、わたしもやっぱり似たような顔を、しばらくしていた。もうママよりうまくなったかもしれない。変わらないのはシロだけだった。そうやってしてると、とくにわかりたくもなかったこと、人が死んだあとにみんながなにをするのかも、わかった感じがした。真奈にもそう言った。人が死んだあとにみんながなにを考えるのかはいまいちわからなかった。これは真奈にはまだ言ってない。犬ならどうなんだろう。
 だからふと、たいして思い入れもないこの田舎に来るたびに暇をつぶしてたぼろっちい納屋に、いままで知らなかったなにか不思議ものがないかとひらめいた。シロがつながれている小屋の裏にある納屋で、来るたびにへんな農具だとかへんな本だとか見つかるのが不思議で、ちいさいころはわりと好きだったはずなのに、真奈といまみたいになってからは、そんな暇つぶしをしなくてもよくなって、だから入ることもなくなってた納屋だ。そういえば真奈にはあの納屋のこと、話してないはず。でもなんだか真奈が好きそうな気がする、いままで気がつかなかったけどそんな気がする。納屋は記憶の匂いがするから。きっとそうだ。だから入ってみることにした。もう神妙な顔をする練習は一生ぶんやったわけだし。だから入ってみることにした。
 ってことで、このたび見つけ出しましたのは、ずいぶんなかかな古そうな、こちらのノートというわけです。
 へー。中、もう見た?
 まだ。
 じゃ、開いてみてよ。

…………

 さて、《いま・ここ》と題された本は、この図書館にいったいどのくらいあるだろうか。もちろん無限にある。そして、それだけではない。わたしはその本のなかほどを読んでいるわけだが、その本のその地点までまったくおなじことの書かれた本は、この図書館にいったいどのくらいあるだろうか。もちろん無限にある。
 それからここで種明かしをひとつ。わたしはトラルファマドール星人ではありません。わたしは時間のページをじゅんぐりにめくっていくことしかできない、愚直きわまる読者でございます。あともどりもできなければ、数文字先を見やることすらできません。さらには、読み終えなければ(読み終えても?)ほかの本に浮気することだって禁じられているのです(わたしはわたしの書くものについて、そんな読者のことが、喉から手が出るほどほしかった)。
 ところで、「読み終える」とは? トラルファマドール星人は読むのをやめられたのだったか?

…………

 老人ホームの郷と揶揄されるこの街に暮らし、介護職で食いつないでいるおれとしては、この仕事とそれなりにうまい距離感をとってやっていけているのだと考えていた、というのも、それはちょっとした自負のようなもので、多少の自負くらいはなきゃ元気でやっていけないとおれにはわかっていたから、とりあえずそう思うことにしようと自分に強いていたところが大だからなのだけれど、だから、よしこのおれにだったらなんでも言ってくれってくらいの気持ちを周囲に振りまきつつ、その実気持ちを振りまくのがうまいだけで実際に面倒ごとを頼まれたときなどはおれをかわいがってくれる鴨志田のおばさんに猫なで声で頼みこむなどの手管を駆使することでかなり手を抜いていて、それは周知の事実だったのだけど、それでも、いざ血のつながっている曾祖父について、主担当はあなたね、空いてるのあなたしかいないのよねと副施設長から言い渡されたとき、それはさすがにちょっと、勘弁してほしいな、と感じてはしまうところはあって、だから鴨志田のおばさんにクネクネしてみるも、あなた見てやりなさいよと珍しく強情で、そりゃないよと思うのだが、だって、いくら自負があったって、うまいぐあいに手を抜けるくらいの距離感でいるからって、そりゃ嫌だってみんなわからないかと思うものだが、どうもみんなはそういうわけでもないらしく、いいよなお前みたいな顔をしているし、そもそそ相手を選んでいる余裕があるわけでもないのはおれにもわかっていて、なんたって昨年近くにできた大手の施設はオープン当初から大盛況、まるで老人のための遊園地みたいな、それは言いすぎだが、老人の天国、っていうと死んでることになるが、とにかく老人ホームのくせに妙に華やかで、一方うちはといえば、どうにも金払いのよくない、というかおおむね家族にも行政にも見放された老人ばかりの集まる施設というイメージがすっかり定着してしまったのか、なんとなく陰気な雰囲気がどうしたって拭えず、裏手に墓地があるのがそもそもいけないんじゃないか、直行便だぜ、というのはうちの飲み会での鉄板の軽口で、どうしてこんな立地を選んだのかは施設長だって知らないらしい謎なのだが、だからとにかく、そういうのも含めてとにかく陰気で、たとえば先週のはじめに訪れた見学者も、ひととおりの説明を聞いたあと、なんだか寂しげですねなんて吐き捨てて帰り、それからどうなったという話も聞かない、それほどだったから、この施設の状況はまったく芳しくなく、こうなったら職員の身内でもいい、親族に声をかけてみろ、そう毎週のように施設長から怒鳴られてさえおり、そのあとで副施設長からインセンティブも出るわよと人参だってぶらさげられたから、曾祖父がそろそろという話になっていたのをいいことに、その処遇をここに決めようと祖父に進言したのは、なんたっておれ自身の仕事への誇り、プライドがあってのことだったけれど、だからといって自分を担当にあてられるとは思ってはいなかったわけで、とは思うものの、いまみたいにどうしたって首が回らない状況で、やる気があるふりをしつついかにも手を抜いてそうな人間がいるならば、おれだってそいつを新規の爺さんにあてようとするだろうと考えなおし、そのうえ祖父はお前が見てくれるのなら安心だとかなんとか思ってもいなさそうなことを言ってくれ、なるほどたしかに、そういう意味ではなるほど理にかなっているのかもしれず、そう考えればみんなのあの顔も、おれにはいまだ納得がいかないもののきっとそういうことなのだろうと思えるというものなのだが、ひるがえってその当人たる曾祖父のほうはどうかといえば、それなりにいるはずの曾孫のうちのひとりである自分のことなど覚えてはいない、というか毎朝そう伝えているにもかかわらず覚えてはくれず、どうにか親族だと理解させた日だってたいてい伯父と間違えられるという始末で甲斐もないのだが、そりゃあ歳が歳だから仕方がないことだし、それで嫌な気持ちがするかといえばそうでもなく、むしろ気が楽でさえあったから、であればもう、いっそのこと曾孫であることなんて面倒なこと、はじめからわざわざ伝える必要もないということになるのがしぜんな成り行きだよな、そういうひらめきが降りてきて、なかなかいい考えに思えたから、こちらだってまわりのじいさんがたと同じように扱うこととすれば、わかっていたとおり、結局のところ曾祖父も含めたじいさんがた一般は、当たり前の話だがべつだん悪い人間なんかじゃなく、ときたま、ほんのときたまではあるが、よくは理解できないが含蓄のあるような話をしてくれる、そしておれはそれの話をあとでひとりもてあそぶのが好きだ、そうかやっぱりこの仕事のことは好きなのだろう、そう思うに資してはくれて、だからもっとずっと仕事は楽になったが、ただ一点、なにかにつけて知世さんにアプローチするのはちょっとやめてほしいとは思って、もちろんこれだって、忘れっぽいのとおなじくしかたのないことではあるのだが、いかに知らん爺さんとして接しているとはいえ、そんなときにはどうしたっておれの曾祖父であることが思い起こされるのは間違いなく、だからその曾祖父が、自分は写真でしか見たことのない曾祖母、かと思いきやそうではない知世さん、ぜんぜん似てないがいつのまにか好みが変わったんだろうか、大昔にアイドルだかなにかをしていたらしく月に一度くらいの頻度でその雑誌を見せてくれるがいまやそのころの面影があるのかないのかわからない知世さんに熱をあげる姿を見るのはなんだかちょっと恥ずかしく、でもよく考えてみれば曾孫のことを一日たりとも覚えてはいられない一方で知世さんのことは毎日気にしているとすれば、それはなかなか見上げた根性ではなかろうか、だって毎日のように恋文の予稿をノートにしたためている、それはもう、ほとんど執念じゃないか、人生最後の、燃え上がる恋、何度も言うがおれのことなんか覚えてくれないというのに、恋は燃え上がる、まあはたから見てもなにかと知世さんに声をかけていて本人はバレていないらしいがみんなにはバレバレっていうガキみたいな状況にすぎないのだが、恋文のことはおれしか知らないのだが、それでも、だからその姿にだんだんと尊敬の念さえ湧いてきて、その血がおれに流れていることさえ誇らしく思えてきたところで曾祖父はぽっくり逝った。
 血がつながっているからというんじゃなく、あくまでたまたま当直で最後を看取ったからというだけなのだけど、祖父に連絡をして、それから手間賃代わりにノートは拝借しておこうと思って見てみると、これ、書いてあるのはどうも恋文ではなさそうだ。

…………

 《いま・ここ》と題された、わたしが読むことのできている範囲ではまったくおなじ内容の、それら無限の本たちのうち、わたしはどの《いま・ここ》を読んでいるのだろうか。といったところで、わたしにそれらを弁別することはできない。ただ、まったくおなじ紙、おなじ色のインク(二色刷りだ)、おなじ装丁(あかがね色をしている)、おなじように製本され、この地点までまったくおなじことの記された《いま・ここ》が無限にあることだけは知っている(ありがたいことに、《いま・ここ》はまさにそのことをあかしてくれてさえいる!)。
 だとすれば、わたしは、わたしがそれら のうちのどれか を読んでいると考えることはできないだろう。わたしはそれら すべて を読んでいると考えるべきだ。そう考えるしかない。
 わたしが一文字一文字と読みすすめていくにつれて、無限の《いま・ここ》のなかから、無限の《いま・ここ》がふるいおとされ、無限の《いま・ここ》が残る。どこまでいったって無限だ。わたしは無限の本の、そのすべてを、いま、ここで読んでいる。

…………

 重苦しい空気ばかりが。わたしの知るかぎり、この国はずっと。むかしは違ったと母は。けれどわたしは知らない。母は知っている。違う、いまは。それならわたしも。母も。みな知っている。それだから? 母は縋った、長寿に、母の祖母の祖父に、この国で、もっとも長齢な人間の、ひとりに。
 誰が興味を? この国で、そんなことに。誰も持たない。だけど? だから? 母は例外で、それを何度も聞くわたしも。母は夕食のたびに繰り返した。もうすこしで。最長齢はもうひとり別にいて、だから、彼が次ぐ。そして、もっとも、長齢になる、そのときを待つ。わたしにもあなたにも、その血が。だけど祖母もその親はとっくに。それでも母は信じた。彼は最長齢となる、そしてわたしも、そしてわたしも。
 だというのに。彼の居場所は? わたしは知らなかった。彼の死の報せを受け取るまで。母は? わたしは知らなかった。報せは母が受け取った。母は葉書を持ち、ああそう、とだけ。なにが? 葉書が、こちらに向いて、向けたのは母。わたしはそれから? 見たのはわたし。彼は死んだと。わたしはそれから? 見たくない。見たくなかった。わたしは、母の姿を、これ以上、見たくはない。だけど? だから? どうしたらいい? 母から取り上げた。わたしは葉書を。そこに目的地があった。葉書に場所があり、場所が目的地になった。だから母を置いてわたしは。母は出立の朝、ああそう、とだけ。わたしは発った。
 それは地方都市で。同じだ、わたしの住む街と、なにもかも。数十年、百年、商業施設。すべてが老いて、例外がない。かろうじて生きながらえて。ほんとうに? 死んでいることに気づかない? 死んだ街は同じ。みんな、その姿は。じゃあ、生きてるなら? それなら違う。軽やかで、はきはきとして、つややかで、なめらかで、それぞれに違う。わたしは知らない。でも? きっとそうだ。ここはそうじゃない。わたしは歩き、訪ねた。みんな同じだった。同じ家々のなか、同じ家たる彼の家、弔いを済ませた家。飼い慣らされた犬。唸りもしない。それから? 夫妻、遠縁の人。ふたり。彼を看取った。挨拶をし、知るかぎりの親類には連絡したんだよねえ。そのつてをたどって連絡してもらうようにして。つらなりがつらなって、つらなって、つらなって、母まで。繰り返しが、わたしを愉快にした。ふいにわたしは愉快になった。だからってわざわざ来てくれる人も珍しいわよ。たいしたお礼もできないけれど、とりあえず部屋でも見ていくかい。
 部屋で。彼の机と、書棚。ほとんど空の書棚。もうずいぶん整理したし、あとは捨てるしかないかなと思ってはいるんだけども、なかなかねえ。つらなって、つらなって、わたしまで。どうしたらいい? 葉書を持ったわたしは。つらなって、わたしから。だから? ほしいです、と言った。つらねる? 本を、持って帰れるぶんだけ。
 辞して帰路、一冊をつつむ箱、挟まっていたこのノートまでつらなってつらなって。

…………

 というわけで、宇宙が無限個あるのなら、それら無限の宇宙の部分集合たる無限個の宇宙すべてに、わたしはいる。そう考えるしかない。
 わたしが このわた と考えるとき、まったく区別できないしかたで このわたし と考えている このわたし が、無限にいる。そう考えるしかない。
 そして、わたしは それらのすべて だ。そう考えるしかない。

…………

 さて、ここでちょっとだけ気味の悪いお話をひとつ。夏、夏といえば怪談なんですが、本気の怪談なんて荷が重いから、せめてひんやりしてもらえないかと期待しつつ、わたしが夏休みに実際に体験した、ちょっとだけ気味の悪いお話を、ひとつ。
 きっかけは、気味が悪いというより、奇妙な話をお母さんから聞いたことでした。というのも、うちのおじいさんのそのまたおじいさんの……何代になるかはっきりしないんですが、その人の歳がよくわからないんだとか。おそらくは二十年ほど前の併合をきっかけにはじまった戸籍制度の段階的廃止のときの手続きミスのせいで、そのおじいさんの生年月日の記録がどうにもおかしいんだとか。お母さんがぼやくには、仮にその生年月日がほんとうなら、その人、百五十歳だか二百歳だかってことになっちゃうらしいのよ、と。たしかに、いくらなんでもそれはおかしい。そのおじいさんの子供や孫の世代はみんな死んじゃって、結局いまだにその人が何歳なのかって決め手がないのよ。それはそれは。なかなかにおかしな話ですね。
 もちろん、いまどき人の年齢なんて気にする時代じゃないでしょと、わたしなら思います。ときどき、お母さんからもうあんた三十でしょだなんて言われて、はあ、だから何? みたいになっちゃうくらいですから。そういうところは——わたしとちがって——お母さんは古い時代の人ってことなんでしょう。ただ一方で、百五十とか二百とかになったらさすがになにか違うのかも。そうも考えました。そのくらい昔ってことはきっと、そもそもインプラントを受けられなかった世代のはずですから。いったいどんなふうに、日々を暮らしているのやら。そういったことが気になるのは、きっと正常な好奇心ですよね。そんなわけで、それなりに興味がわいたので、この夏休みの自由研究はそれということにして、そのおじいさんのおじいさんの……おじいさんに話を聞いてみることにました。なにか新しい事実が発覚するかもしれない、なんて思ったりもして。
 ところが、そう簡単にことが運ぶはずもありませんでした。もっと聞いてみると、そのおじいさんのおうちはは管理区の外にあり、そのうえ受像機さえないというんです。つまりは、めずらしくもわざわざ移動までしなきゃならないということになるわけですね。そんなことってあるんだ、と思いました。つまりは、磁動車に乗らなきゃならないということになるわけですね。うへえ、と思いました。管理区の外へ出るというのは、わたしにとって、ちょっとだけ勇気が必要なことでした。だって、関所のスキャンが怖いじゃないですか。磁動車全体がうんうんと大きな音を立て、サイレンがくるくると回る。インプラントに悪影響があるんだってみんなが噂する。仕事で行き来している人は寿命が短いんだ、って。
 けれど、わたしだってそろそろひと夏の冒険くらいはしたい年頃です。せかっくの夏休みだしそのくらいはやってやろうじゃないの、なんて、すぐに気をとりなおしました。ここ何年も管理区の外を見る機会さえありませんでしたし、関所の通行切符の使い道もなくて、ずいぶんたまったままでした。ちょうどいいでしょ。だから、そのおうちの人にお母さんからメッセージだけ送ってもらって、磁動車にだって乗って、あとは流れでどうにかしてやればいいや。そういうことにしました。
 そして実際、終わってみれば——喉元過ぎればなんとやらとお母さんがよく言うように、磁動車だってそれに乗っての関所のスキャンだって、たいしたことはなかったのです。二十歳くらいのころ、まだわたしが幼くて、それだから怖がっていたのが、ずっと心に残っていたっていう、それだけのことだったのかもしれません。磁動車の様子も区内の電動車とたいして変わりせんでしたし、乗客もみな平然としていました、降り立った駅とその外の様子だって、うちの近所とほとんど区別のつかない51C型標準設計都市。街にはぜんたいにちょっと背の低い人が多いかなって、違って見えるところといえばそのくらい。そうやって、たいした冒険もなくおじいさんの家までたどり着いたものですから、そのころにはもう、つまらないなと思って、わたしは後悔しはじめていました。だって、そのおじいさんの家だって、やっぱりわたしの家と区別がつかないくらいでしたから。それでも、けれども。感情というのは忙しいもので、そんな気持ちさえ、ほどなく裏切られることになったのです。
 家に着いて呼び鈴を慣らし、しばらく経ってから出てきたのは、男の子——それこそまだ二十そこそこくらいでしょうか——整形も受けていないのか、鼻の形がやけにいびつに見えます——こういう顔の人って、歴史の授業でしか見たことがありませんでしたから、だからちょっと驚いてしまって——悟られてしまったら、訴えられてずいぶん面倒なことになる——顔色をうかがっても、あまり表情がわからないし——この様子なら大丈夫ってことでいいのかな——いや、おかしいのはそのことじゃないんです。うちの母からすでにお聞きおよびかとは思いますが、これこれこういうことでお伺いいたしました。せっかくですし、まずはその——わたしの——おじいさんにご挨拶させていただければと思うのですが。磁動車のなかで案じていた一発目の台詞をすらすら言うと——言えてほっとしたのは内緒です——その子は答えました。彼はもう死んでいます。当主から言いつかっていることには、もし親族がそれと知らず訪ねてきたならば、まずはこのノートを渡して読んでもらいなさいと。
 え、亡くなってたんですか(お母さんがメッセージを送ったのはほんとうにこの人なの?) はい。それは……いつ?(じゃああの話は嘘だったってこと?) さあ。さあ、って(っていうかこの人結局どういう関係の人なわけ?) わたしは知りません。じゃあこのノートは(いまどきノートっていうのも……) わたしは当主の親族ではありませんから、読むことも許されていません。

…………

 念のために言っておくと、これはべつに、量子力学のなんとか解釈で……みたいな話じゃない。まったくない。分岐なんてしてはいないし、収束もしないし、絡み合ってもいない。たんに無限にあるというだけの話なのだ。それぞれの宇宙のあいだは、因果でつながれてもいない。飛び移ることはできない。なにかをたがいに知ることもできない。
 だから「(宇宙が)複数ある」とか「(わたしが)複数いる」とかいうのも意味のないことなのかもしれない。「複数ある」「複数いる」ということは、そのあいだでなんらか情報を交換できなければ成立しないことのようにも思えるからだ。
 ただ、だからといってそれらの宇宙を「存在する」対象から除外してしまうというのは、わたしの日常的な言葉の使いかたに鑑みれば、やはりおかしいだろう。たんにわたしがそのすべてであるということを受け容れるほうがずっと自然なことのように思える。だからやはり、わたしは無限にいて、そして《いま・ここ》を生きているわたしは、そのすべてなのだ。

…………

 わたしが話しかけると、キミはすぐに顔を赤らめる。いつもそう。だから、わたしはキミに教えてあげる。あたかもいまふと思い出したかのように——ところで、いまだに古典的な個人崇拝をするような 宗教 がこの世界に残っていると、きみは知っているかね。そうしたら、抜き打ちの教義問答と勘違いしてどぎまぎしたあと、キミはわたしの口角の上がっていることに気がついて、冗談を言わないでくださいって笑うんじゃないかな。だからわたしは調子に乗って、もっとおかしな話をしてやろう、と続ける。その崇拝されている教主はわたしの血縁なのだ。そう言ったらどうだろう。キミはすぐに血相を変えて怒りはじめるかもしれない。馬鹿にしないでくださいって。馬鹿にしているのかもしれない。わたしはいつも、キミを馬鹿にしたくてたまらない。でもこれはほんとうの話で、だからわたしは繰り返す。その男こそわたしの血縁だった。「男」というからには、 は世にも珍しい、れっきとした第四性で、そう、そして、 だった 、過去形だ。彼はもうこの世にいない。そして、教団はいまだにそれをひた隠しにしている。なぜって、彼が不死であったことが、その教団が勢力を広げた理由だったからだ。よくもそんなに馬鹿らしい話が口をついて出てくるものですね、いまどきそんなことを信じる間抜けがいるとでも? そんなことを言ったって、きみはたった五十年ほどしか生きてはいないだろう、そんなに若くては知らないことも多いのではないかな、まあ聞きたまえ。そんなふうに打ち返しているうちに、興味を持ってくれたらいいのだけれど。それとも興味のないふりをされるのかも。ただ、キミがどうしたってわたしは喋りつづける。キミはわたしを無視できない。だからわたしは、一本の物理トークンと一冊のノートを懐から取り出す。キミはわたしの胸元に目線を残したあと、慌てるようにそのふたつに目をやる。わたしが教団の使者から貰い受けたものだ。決定的な証拠と言うつもりはない。けれど、ただきみをからかうためだけに、わたしがこんなものを持ちだしたとでも思うのかね?
 ちょうどきみがわたしの下について間もないころ、とある夜のことだ。犬のような被り物をした滑稽な姿の人間がひとり、どうやってわたしの部屋に侵入したのか、突然目の前に現れた。もちろんキミは顔をそむける。わたしの部屋がどんなだろうと想像してる。わたしは続ける。すぐに従者を呼ぼうとするわたしを制して、その人間は言う。われわれは使者である。われわれのもっとも崇高な使命として、模範となるべき者——つまり彼のことだ——の 隠れ に備え、血縁たる者にこれを与えるべしと。それから使者は、懐からこのふたつを取り出したのだ。被り物はまるで本物のようだったけれど、その下の衣服はひどくみすぼらしい。きっと第五性の人間で、だから恐れるにあたらないとわたしは考えた。被り物を透かして見える瞳だけはきれいだった。そこだけ毎年取り替えていたのかもしれない。そう、いまのわたしと同じように。それから、使者はそれまでの芝居がかった態度ももう終わりだと言わんばかりに、わたしにトークンとノートを押しつけ、すぐに部屋から出ていった。どうやって抜け出せたのやら。
 こんな古い型のトークンに対応したデバイスなぞ、いまどき首府の博物館にしか残っていないだろう。どうしようもない屑だが、わたしが教団のことを知ったのはこれのおかげだ。わたしにだってそのくらいの権限はある。それからノートのほう。こちらはもっと古い。もちろん知識として知ってはいても、実物を見たことはないだろう。これも、博物館に行けば似たようなものを見られるかもしれない。そうだ、 あれ のもとになった「ノートブック」のことだ。こちらには、文字がみっちりと詰まっている。

…………

 図書館の話に戻る。わたしは無限冊ある《いま・ここ》を読んでいるところだ。この、あるいはこれらの、とりたてておもしろいとはいえない、けれど嫌いにはなれない本のこの先では、いったいどんなことが語られているのだろうか。あいかわらずつまらないかもしれない。とてもおもしろいことが起こるかもしれない。荒唐無稽なことが次々に起こりつづけるかもしれない。幸福かもしれないし、そうでないかもしれない。突然の空白にぶつ切られるのかもしれない。文字の並びによって実現できる語りであれば、それは必ず、無限の《いま・ここ》において語られるはずだ。
 というわけで、おなじことが宇宙にもいえる。確率的にゼロでないある事象があり、無限の宇宙があるなら、その事象は、無限にある宇宙のどれかで必ず実現する。

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 地球に親族がいるなんて、そのときまで考えたこともなかった。知らなかった、考えたこともなかった、それなら無視すればいいだろってのは、それはそうで、だから葬式のあとしまつに来いなんて話が出たときだって、そんなの知らねえよって感じだった。だいたい地球——光速でさえ追いつけない、だから直接移動しなきゃならないあんな場所——になんて、絶対に行きたくない。遠くて仕事もできないし、めんどうだってのもあるが、そんなことよりなにより、地球のやつらは気味がわるい。話に聞いたことしかないけれど、それがほんとうなら、あんなのは人間の暮らしじゃない。どんどん身体を取り替えて、いつか脳でさえ取り替えられるようになる日を夢みて、でもそれはいまだにかなわなくて、ピカピカの身体を使いもせず、投影装置に埋ずめ、熟れすぎて腐った精神をひきずっている。いまだに葬式なんて文化を保っているって、そんなの嘘だろってなもんだ。
 それだけ嫌だったのに結局数か月もかかる船旅に出ることにしたのは、どこでその話を知ったのか、主任のスグルさんから——いつものねっとりした口調で——行くように言われ、しかも会社から金まで出るということになったからだ。その間仕事は休んでいいからと。そうなってくると、むげに断わるわけにもいかない。だけどどうしたって嫌な予感はする。というか、単に来いよと言われたときよりずっと嫌な予感がつのるってものだ。おれのプライベートにまで指示があるだなんて、どう考えたっておかしいだろ。地球に親族のいる社員なんてほかに聞いたこともない。だれかに相談しようったってそうもいかない。会社勤めってのはつらいもので、どんな状況だって、ともかく上で決まったということになれば、従わざるをえない。だからもうほんと、嫌々。嫌々だよ。生まれてはじめて定期船に乗ることにしたのは。遠くから眺めるだけで一生を終えられると、なんとなくそう思ってたんだけどな。
 そんな感じで出発したとはいえ、地球航路の船旅自体は楽しかった——と思う。もちろん大昔の遠洋への航海ってほどでもないのだろうが、やっぱり限られた空間で、おかしな気なんて起こされちゃたまらないってことなのだろう。性欲や食欲にからむものも含め、娯楽の種類は——最新でこそないものの——豊富で、おまけに無料だった。ここぞとばかりに入り浸ったせいで、結局のところほかになにがあったかも覚えちゃいない。どうせ火星人なんてバカばかりだからと、なにかぼんやりさせるような食い物でも食わされたのかもしれない。とりあえず楽しかったような気はする、それだけだ。
 そうやってぼんやりしてるまに地球に着いてみると、驚いた。発着基地はともかく、しめて二十八地球日の隔離期間に収容された街区の様子は、案外にも地元と変わらなかった。おれみたいに火星と行き来する人間がいる場所だからそんなふうに作られているのだろう。あてがわれた部屋は見知った雰囲気の団地の一室だし、商店街だってある。「ようこそ地球へ」なんてのぼりがそこらじゅうに立ってさえいて、みやげもの屋の並ぶ一角には毎日行列ができていた。そんなだからおれもそれなりにリラックスして、隔離期間の暇潰しに入り浸っていた喫茶店で親切そうなじいさん——どうもこの収容地区の水が合ったらしく、住み着いて商売をはじめてしまったらしい、ちゃきちゃきのアルカディアっ子だった——と仲良くなり、地球のことをいろいろ教えてもらった。ここらの女は悪かないぞと、会うたびに言っていた。最近は恋文を書くのが流行っていて——って話は別にいいか。ともかくおれがここまで来た経緯を話すと、どうも興味を持ってくれたらしく、せっかくだから自分の身体で行ったらどうだとのことで、たしかにオンラインでどうこうできるほどの金もなかったから——というのは、そこまでは会社も出してはくれなかったし、だからそのまま帰ってやるつもりだったからなんだが————そのあたりの手続きも教えてくれた。だから行ってみることにした。こうやって喋ってて気がついたんだけど、おれってもしかして、流されやすい性分なんだろうか——気付かなかったな。
 というわけで、おれには空飛ぶバスとしか形容しようのない乗り物——ただし窓はひとつもない——に乗って、もうパーツの更新費用さえ払えなくなったとみえるだぶだぶの地球人と、おれたちみたいな外星人、それから見るからに高給取りの、鼻が長くて毛のふさふさした運転手と乗り合った。運転手の三本の腕がつやつや光ってたのが印象に残ってはいる。地球のバスってのは、わざわざ人間が運転してるんだなと思ったからだ。それともあれは人間じゃなくて、どこかの投影装置で操られている機械かなにかなんだろうか——と考えたってしかたないだろうということで、じいさんに教わって手に入れた端末での暇潰しに熱中した、レベルが五垓とちょっとくらいになるうちに、どのくらい乗っていたのだか——一度は眠ったから、たぶん一昼夜くらいだろう——ターミナルに着いて、そこからは自分の脚で歩かなきゃならないらしかった。わざわざ火星語での音声案内まであるんだから親切なものだ。おれ以外にはだれもバスから降りなかった。端末の案内に従って、ずいぶん歩いた。そのあいだ、誰ともすれ違わなかった。おれの乗ったのとおなじようなバスが飛んでいるのを、何度か見たくらいだ。目的地らしい場所にはでかくてとがった建物がそびえ、火星では見ないすらっとした植物が道沿いにえんえんと並び、ほかにはなにもなかった。ターミナルは地平線のむこうだ。つやつやした、都市ともいえない、ただの場所だった。いつのまにか夜になっていた。
 受付の端末で生体情報を登録してほどなく、こっちも鼻が長くて毛のふさふさした顔の地球人らしきやつらが、うすく光る壁のむこうから、うようよ、ひたひたと落ち着かない様子で雪崩れるようにやってきた。やっぱり三本の腕がつやつや光っていて、流行ってるんだろうかと思った。反射的に顔をしかめつつも、腕がもう一本というのは、なかなか悪くなさそうにも思えた。なんたって仕事がはかどりそうだからだ。そんなバカなことを考えていると、地球人の一人がもごもご言う。自動通訳によれば、どうも歓迎してくれるらしかった。壁の奥へと連れられ、ずいぶん豪華ななりをした昇降機かなにかに乗せられ、それから加速度を感じた末に案内されたのは、団地の一室みたいなこじんまりしたスペースだった。また団地かよとは思ったが、いやいや、なかなか気が利いてるじゃないかという気持ちが勝った。たぶん、ちょっと心細くなっていたんだろう。そんなことを考えて、気遣いにお礼でもと振り返ったら、奴らはもういなかった。扉は開かない。というか取っ手がなかった。
 いくらぼんやりしたおれでも、自分が閉じこめられたことくらいはわかった。だからって、どうすることもできない。出発前の——もうずいぶん昔のことのように思えたが——嫌な予感がいまさらながらに当たったことが、なんとなしに嬉しくもあった。そう広くもない部屋をたしかめてもみた。窓かと思ったら映像が流れているだけだった。部屋にはベッドがひとつとデスクがひとつ、椅子は固そうだった。でかでかとした監視カメラ——いまどきの地球の技術でこれはないだろうと思ったが、あわれな火星人のためを思ってレトロなやつを探してくれたのかもしれない——が設置されていた。おそらくは監視されているようだったし、そうでもしないと閉じこめている意味もなさそうに思える。冷蔵庫はわざわざ冷やす必要もなさそうなメイド・イン・マーズのパウチでいっぱいで、食うものには困らなさそうだった(キッチンもあったけれど、だからやっぱり使い道がなかった)。それから……それからほかには目ぼしいものはなさそうだった。例の端末は持ったままだったから、それで一週間くらいは粘ったけれど、十澗くらいがレベルキャップらしく飽きてしまった。部屋をあさった。ベッドの下に鍵があった。デスクの抽斗の鍵らしかった。開けてみると、ノートが一冊。ちょっと文字が汚いけれど、どうやら火星語で書いてあるらしい。

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 わたしがあらゆるわざわいから逃れられる確率を考えてみる。ゼロとは言えないだろう。わたしを構成するすべての細胞に、その再生産の過程のちょうどよいタイミングで、なにかが起こって、わたしがわたしの記憶を維持したまま、わたしが認識するわたしの同一性を維持したまま、恒久的に若返る確率だって、やはりゼロとはいえないだろう。なんなら、消滅して、まったく同じに再構成されることだってありうるかもしれない。
 巨視的には物理法則に反していると見えても、その抜け道にはほとんど限りがないのだ。トンネル効果がなければ太陽だって光らない。ありうることはありうるとするほかはない。
 であれば、わたしがいつまでだって死ぬことのできない宇宙は、必然的に、ある。そして、無限のなかでは、起こりうることは必ず無限に起こる。だから、「起こりうること」なんてものはなく、絶対に起こらないことと絶対に起こることのふたとおりしかなく、そしてわたしが思い付くようなことなんて、絶対に起こる。そしてもちろん、それは無限に起こる。

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 その 生きている 人間を 殺せ との指令がぼくらにくだったのは、保存されたぼくらのゲノムとその人間のゲノムとの類似性が有意に高かったからだ。ぼくらが、なんらかの意味でその人間の直系にあたるからだと。そしてそれは、最後にのこった人間だった。ぼくらはそんなものがあることをすこしも知らなかったし、ほかの誰らからも通じたことがなかった。人間が 生きている とはいったいなんなのか、ということなら、ぼくらも知っていた。だけど、それを 殺す とはいったいなんなのか、ということは、誰らからも通じたことがなかった。けれど、知っている誰らはいて、 殺す とはいったいなんなのか、ということを、通じた。
 われわれはこれまでいくども、それを 殺そう としてきたのだという。しかし、そのたびに失敗したのだと。あるときは追手に気がついたのか、いつのまにかすがたをくらましていた。あるときはいくら 殺して殺しきれなかった 。ずいぶんとながい時間、空間的定位ができなくなることもあった。そういったことがくりかえされ、そのどれもが、偶然としか説明のできない理由での失敗だった。それは 生きのびた 。われわれはみな、ぼくらも含めてみな、必然のなかだけでくらしているから、偶然というのがほんとうはどういうことなのかは、ほかの誰らにだってわからない。それでも試行をくりかえすように、どこかの誰らに指示がくだる。そして、これがぼくらの番だった。われわれにとって、なにかをくりかえすことに、なんのためらいがあるだろうか。
 はじめての受肉だった。ぼくらは物理世界のことを知らなくて、感覚器官からうけいれる情報すべてが新しかった。 なま の感覚から目的に必要な経験をよりわけられるようになるまで、ずいぶんとながい時間がかかった。ひととおりのシミュレーションは通過していたけれど、ほとんどなんの役にも立たなかった。はじめのうちなんて、ぼくら自身でうごいていたというよりは、指令されたとおりのリズムをどうにかきざんでいたといったほうが適合的だ。そしてたとえば 飢餓 の感覚。みずからエネルギーを手に入れなければどんどん運動のための器官がおとろえてゆき、ぼくら自身にゆるされる計算量もひどくおちてくる。そしてエネルギーをとりこんでいるときの ここちよさ は、これまでに知ることのできなかった過程だった。これまで知らなかった地面を蹴り、これまで知らなかった空気をきった。はじめて見る獲物を とらえ噛みちぎり味わい 、それから 飲みくだした 。ぼくらは駆け、食い、眠り、そしてまた駆けた。
 まあ、感覚と経験についてはつねに通じつづけていたから、誰らだって興味があれば、そちらを知ればいいだろう。ただし、ぼくら以外がそれを通じられるかは疑わしいし、結局のところ、過程というものにはなんだって価値がない。だからおしまいからいえば、ぼくらはそれを、なまあたたかい液体でいっぱいの容器を、追いつめ、爪をたてた。空気がひどくふるえた。ひきさいた。そして、結果にはなんだって価値がある。ぼくらはついに任務をはたした。それで終わり。予定されていたサブルーチンのほとんどは起動されることもなく、無駄になった。任務の完了が うれしくて 、ぼくらは吠えた。
 追加報告。その 死体 のそばに、一冊のノートがあった。ノートと呼ばれるものの一単位。これもやはり、偶然だったのだろうか。

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 図書館と宇宙にも違いはある。図書館で、わたしは無限の《いま・ここ》を読んでいるけれど、手元にある《いま・ここ》を読み終えたのち、そこから離れることができよう。そのとき、まだわたしはそこにいる。
 一方で、わたしは、わたしがいなくなった無限個の宇宙を認識できない。まったく区別のつかない無限の宇宙のうち、わたしが生きのびた無限個の宇宙でしか、なにかを認識することはできない。わたしは無限にいるわたしすべてなのだから、過去をふりかえり未来を予測するわたしは無限にいて、それらの過去のうち、生きのびた宇宙へとつながった未来のなかでのみ、わたしは現在を主観する。
 だから、わたしは主観的に必ず生きのびることができ、わたしは主観的に、いなくなることができない。

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 ここにはなにもない。地球もない、太陽もない、銀河系もない、それらがなんだったのかは、はっきり覚えている。空間はまだかろうじて残っている、時間はまだかろうじて残っている。わたしは漂っている。胎児のように漂っている。

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 ノートを預け、横で冷めたコーヒーの残りを飲んでいると、まあね、お父さんだったら、それこそ自分が死んだことにも気がついてないかもね、と母が笑う。そろそろ妹が来る時間じゃないだろうか。

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