蜘蛛の巣、千の扉、ユニタリ変換

 この現在と遠く隔たっているのかもしれないけれど、実感としてはそうでもない、むしろ自分の変わらなさというものに毎度のように驚いてしまう、いまだに慣れることのできない感情だと息をつく。病室の電灯は消えて夜、外の光がカーテンごしに射しこみ、まわりは薄暗い、遠い虫の声と、自分の息づかいしか聞こえてこない。明日は妻が見舞いにやってくると言っていた。いつもなら眠っている時間帯のはずなのに、幼い夢をみていたせいか目が冴えてしまって、天井の染みばかりを見つめている、夢の内容はもう忘れてしまった、ただ夢を見たということだけを知る、印象だけがどこかに残る。たくさんの、ほんとうにたくさんの天井をこうして見つめてきた、そんな日のことばかり覚えている、人生には幸せな思い出だけがのこり辛いことは忘れてしまうのだと父に教えられた、普段はそうかもしれない、それでも、こんなときに思い出すのは同じように腹に空虚をかかえた思い出ばかりで、海もないこの都会の病院で、懐しい波の音さえ聞こえてきそうだ。記憶が混濁しているのだという考えもこれで何度目であろうか。
 次の朝を待つまでの間、寝心地の悪いベッドの上で脚を何度も動かしながら有り得たはずの思い出を遡る彼は、さほど大きくもない家の天井から星雲に見透かされ、そこに記憶を送ろうとする行者にも見える。死を目前に控えた彼は、ふたたび夢を見る。


 陽光の下を義務感に急かされるように男は歩く、流れる汗を拭おうともせず日陰を求めている。高架の横を並行する紫陽花の咲く道は写真愛好家たちの秘め事の場らしく、ゆっくりと場所を求め蛞蝓のように動くその相互作用は、湿度のせいか妙にいやらしく彼の目に映る。蝉の声が電車の音をかき消し彼の存在感を隠すも、歩きつづけることに変わりはない、そのためには脚の付け根から頭に抜ける不快な感覚に身を任せるだけでいい、高架を潜るトンネルを見つけ出すことが夢のなかの夢のはじまりだった。彼はまだそのことを知らない。
 入り込んだトンネルはごく短い空洞、刺すような日差しの合間、蔭のなかで彼は一息つく。壁に手をつき掌を冷やすと周囲の音まで引き締まってくるようで、夏という季節に脅される感覚がいっそう強まる、しかしそれも一瞬だけ、吹いてきた風にすべて流され、汗の蒸散を肌で感じる。午前中の講義で理解の足りなかった数式を思い浮かべ反芻を繰り返すも、熱された頭だけは容易には冷えない。もう少しだけここに居ようと顔を上げトンネルの先を見やったところで気づく、マンホールの蓋が開いている、そこから流れ出す冷気に触れる。
 なんというわけでもない、微かな興味を持って覗いてみただけのことだった。世の中には人の手によって作られ、そして忘れられてしまったたくさんの遺物・遺構があって、それはときどき見つけられ、首をかしげられることもあれば、迷い込むこともある。それは自然ではなく、まぎれもない、人間の創造物だ。深く遠く、降りなければならない理由などなかったはずなのに、彼は梯子に足をかける、憂慮はなく、それこそが夢であることを証明しようとする最初の一段、そして次の一段へと、そして周囲は汚臭に塗り込められる。


 マンホールの底は三メートル四方ほどの小部屋になっていた。壁はコンクリート製らしい、ざらざらとして湿っぽく、ひんやりとした印象を受ける、それを確かめたときにはもう、降りてきたはずの梯子はそこにない。そうして彼はようやく、自分がなぜこんなところまで降りてきてしまったのかという疑問を見つけ、吟味してみようと試みるけれど、ここまでの意識の流れは既に起こってしまったこと、他の行動がありえたなどと考えてみることもできず、選択の余地のなさを思い知らされる、すべて計画されていたことのように、必然という言葉が脳裏を掠める。
 気づくと、上方からさしこむ光に二つの扉が照らされている、まったく同じ扉、木製で、黒い取っ手が付く。他にはなにもない部屋、まったく閉じこめられてしまったのだとしばらくして気づく。ただ――恐慌に陥ることもない自分の冷静さが可笑しくて、彼は一人わらう――何かを見つけ辿るためにここに降りてきたのだろう、ここに佇んでいるよりも、扉は開くもの、そしてどこかへ通じるもの、今はその扉を選びそして進むことこそが、自分のやるべきこと、他に逃げようもない、きっと戻ることなどできない、すべてが終わったときには、なにかが変わっているのかもしれない、自分がなにかを変えているのかもしれない、この先に出口があると思えるのはどうしてだろう。扉は開くもの、そしてどこかへ通じるもの。扉の向こうを吟味しようと、まずは右の扉のその先を覗こうと扉を開く。


 妻が他界したのは3年前、脳裏に焼き付いて離れないのは棺桶のなかの彼女の顔で、そのすこし前、病室への訪問を迎えてくれた彼女の笑顔は上書きされ、もうぼんやりと暗い。
 容態の急変を前に交わした言葉がある。「もうすぐ家に帰らせてもらえるらしいから、そのときにがっかりしないように、掃除だけはきちんとしておいてよ」。表情は明るかった、という印象しかなく、声色は分からない。ただ文字の羅列だけが漂い焼香の匂いに混じり消える。顔を知らない参列者の顔の造形に笑いを堪え、自己嫌悪が重なり、次の参列者にふたたび頭を下げる。馴れない雑事で頭がいっぱいになって、彼女を忘れ、すぐにまた思い出す視覚的なイメージが繰り返す。腰が痛む。焼香の匂いがすごくきつい。
 それもすべて、ずいぶんと過去の話になってしまった。今でも思い出しては忘れてゆく。しかし忘れ去ってしまうことのほうが、きっとずっと多いのだ。忘れてしまったものは、忘れてしまったことさえ思い出せない。


 眩暈。はっとして、顔を上げる。さしこむ光に照らされて、前方に二つの扉が見える。夢だったのだろうか、疑問のなかで辺りを見回してみると、後方にも一つだけ扉。先ほどとは違う小部屋、あるいは小部屋そのものが変化してしまったのだろうか。眩暈の前には、部屋にそんなものはなかった。つまりこれは――先程開いたばかりの扉なのか。取っ手を回そうとするも、動かない、ただ覗いて見るだけだったはずなのに、どうやら選んでしまった、「次の部屋」へと進んでしまったということだと、彼は合点する、なにが合理的なのか、そんなものに意味があるのかも解らない、自分を納得させただけのことではあったが、それで充分と思える。ともかく、もう先ほどの部屋には戻れない。息苦しいけれど、部屋からの要求は相変わらず「どちらかを選べ」ということのようで、それが安堵にも繋がる、マンホールに入ったときと同じ、そうするしかないのだという気分に支配されて。不条理に出会ったときの防禦の方法、おそらくすべての人間に備わるやりかた。額に流れる冷や汗とそこに貼り付いた頭髪だけが、そこに留まれ、考えろと抵抗を試みていたけれど、それを拭うだけで次の選択に集中できそうだった。――進むしかないのだ。何を基準にすればよいのか、彼はそう思いながらも、とりあえず左の扉を開くことにする。そうして向こうの部屋を覗いたとたんに――


「入院の準備って、何すればいいんだろうね」と妻。「いざ自分が入院することになると、あれもこれもって考えちゃう」。
 彼は忙しく立ち回りながら答える、「そんなに長くいるわけでもないし、着替えと暇つぶしになるような本と――」。家の、どこになにがあるのかくらい把握していたつもりだったけれど、結局いちいち妻に尋ねなければならない自分がもどかしく、しかしそのぶん、不安が打ち消されるような気にもなる。明日は一日休みをとった。それさえ面倒に思ってしまう自分もまたそこにいる。快癒を願う自分もそこにいる。二人で住むにはずいぶん広いこの家で、明日からしばらくは、そんなたくさんの自分と、ここで生活していくことになるのだろう。
「ちょっと横にならせて」「ああ、うん、あとはやっとく」。娘に電話するのは彼の役目になってしまったようだった。


 気がついたときには――いったいどのくらい前のことなのだろう、光の具合から考えればまだ日は高いようだけれど――、彼はまた同じ状況にいる。後方にはやはり、先ほど通ったであろう扉、前方にはまた二つの扉。「いちおう」と彼は呟きながら後方の扉に手をかけるも、やはり開く気配はない。あの眩暈はいったいなんなのか、夢なのか、気がつくと「次の部屋」へと進んでいる。そしてまた進めということだろう。ここまで右の扉、そして左の扉と選んできた。その選択とさきほどから訪れる眩暈のような夢のようななにものかとの間に関わりがあるのだろうか、もう一度別の扉を選ぶことはできないから確かめようもない。自分はなにかを求めているのだろうか、これはきっと何かの物語のなか、それならば――しかし、知らない人間の見た光景を見せられているだけで、手がかりになるようなものはなにもない。左右の扉を開かずに検分してみるも、大きな違いはないようだった。むろん全く同じなはずもなく、右の扉に目立つひっかき傷のようなものは、左の扉にはない、そんな違いはあるのだけれど。「好みで」――いいのだろうか。彼は傷のないほう、左の扉を選ぶ。


 満員電車のなか、プレゼントは何にしようと考える、右後方に立つ女からたちのぼってくる匂いがきつい、娘が生まれてからずっと、贈れるものはすべて娘に贈ってきた、匂いから逃れようとすこし左に回転する、娘の結婚に触発されたのだろうか、最近の自分の行動を振り返る、電車が減速する、彼に相談してみるのもいいかもしれない、アナウンス。降りるべき駅までまだあと四駅。ようやく動けるくらいには空いてきた電車のなかで、彼は携帯電話を取り出す。
ようやく使いこなせるようになってきた携帯電話、着信履歴は積み重ねられ、やがて消える、ふとそんなことを考える。


 混濁が消える。解ってきたことがある――そう彼は考える――扉を開くと、なにかが「思い出される」。それは彼自身の記憶ではないのだけれど、どこか自分の頭の中に眠っていたように思える。いつ終わりがやって来るのかは分からない。徐々に若返っているようではある。進むと若返る、それは、この「思い出」にも終わりがあるというとだ。それならば、と彼はひと息ついて声に出す。「その『終わり』まで付き合ってやろうじゃないか」。きっとそこが出口なのだ。前方の二つの扉、それらを区別するものは、やはりなにもない、どちらを選んだところで結局変わりはないのかもしれない。あるいは、ごく小さな相違が結果――所詮夢なのだが――を大きく違えることになるのかもしれない、あきらかな意味によるよりも、その違いに何の意味も見出せない選択が未来を決めるほうがほんとうらしいのかもしれない。どのみち判らないのならば、そこで悩む理由もないのだろう、出てきたものから遡及するしかない。彼はふたたび左の扉を選ぶ。


 娘を送った帰り道だった。片手にハンドルに手をかけたまま煙草を一本取り出し火を点ける。この辺りになると街灯も少なく、道路の両側に人の姿を見ることもまずない。窓を開けると車体を撫でる風の音がうるさい。朝には引っ越しの荷物でいっぱいだった後部座席もいまではがらんどうで、侵入する空気をくるくると回すに任せている。
 彼は娘のいない生活のことを想像してみる。記憶も想像力も枯れてしまった。いや、はじめからそんなものはなかったのだろうか、すべてが未知のことのように思え、期待が寂寥感にうちかつ。そんな弱気なことを言えば娘に怒られてしまうな――そう考え、口の端を緩める。煙草の灰が膝に落ちるのを感じるが、彼はハンドルを切るだけ。一本の街灯が横を通りすぎる。
帰ったら妻が二人ぶんの夕食を作って待っていてくれるのだろう。待っていてくれるはずだ。


 覚める。夢なのか思い出なのか、妻はもちろん、彼には恋人と呼べるような人間さえいなかった、これまで恋人としてきた女性たちのうちに、夢/思い出のなかの彼女に似た者はいなかった。頭上の光がすこし翳ってきたように感じるけれど、湿ったコンクリートに囲まれたこの部屋で、水分子は自らの姿が見えないのをいいことに、彼の身体にまとわりつき離れずにいる。天井から雫が垂れる、音がすると、ようやく視界がはっきりしてきたように感じられる、やはり同様の部屋、前方に二つの扉、後方には一つ。すぐに右を選んだ。理由などない。


 黄色いサンダルを履いた少女の姿が目に映る、少女は駆け出していた、彼は陽光の眩しさに一瞬だけ目を瞑る。公園の遊具から錆びた鉄の匂いがして、頭上で蝉が鳴く、空には雲、少女の他にもたくさんの子供たちと母親、父親、熟年の夫婦たち、自動車の音が遠い、周囲は緑に囲まれ、空には雲、空には雲が、まるで油絵のように。
 妻と少女を眺め、カメラを構えてみるも、けっきょく写さずにおく。日光と熱風に晒され、二人は木陰に逃げこむ。サンダルが砂を踏みじゃりじゃりと音をたてる。「おとうさん」と呼ぶ声、「こっちきてよう」。ふと走り出す、少女は笑いながら逃げてゆく。そうだ、あの少女は私の娘、彼女と自分との間に出来た娘なのだ。明るい未来を夢見られそうな気がして彼は――


 眩暈が消えるとすぐに先へ進む。左を選ぶ。理由など必要ないのだと言い聞かせながら。


 なにか変わったかと訊かれれば、たしかに変わったのかもしれない、それでも、当然の成り行きだったから驚くことがあったわけでもないし、だいたいのことは予想の範疇で、用意されていた環境に身を任せただけだった。――と、そんなことを後輩に喋っても仕方がないのだし、不満があるわけでもない、ただそう考えたというだけのこと。日記を書くような習慣もないのだから、人に話すでもしなければ自分の考えたことなどすぐに忘れてしまう。
 面倒なおっさんになったものだとため息をつくが、それはもちろん飲み屋から出て、電車に乗り、一人になって、それからのこと。「結婚なんてそんなものだよ」と、知ったかぶって言うほどのことでもなかったのだと、すこし反省する。


 目覚める。右。眩暈に中断されることが惜しい、いつのまにか、夢を見ることが面白くて仕方がなくなっている。


 なんとなく結婚するんだろうと考えていた。とりたてて婚姻という関係である必要はない気もしていたけれど、そういうわけにもいかないのだろう。改札前、彼女はいつも待ち合わせの五分前にやってくる。それよりも前にやって来ていなければ怒られてしまう。それなら待ち合わせ時間を五分早めればいいじゃないかと抗議したこともあったけれど、そういうものじゃないと取り合ってもらえなかった。もうすぐ彼女が姿を現すころ、たくさんの人が通りすぎる、「たくさんの人」では形容し切れないたくさんの感情が通りすぎ、みな自由意志を持っているのだろうと彼は信じる。自分もまたそのうちの一人である、と、ずいぶん昔から何度も考えてきたけれど、今日ほどそのことが奇妙に思えた日もなかった。
そろそろ言い出してもいい頃だ。マフラーを巻き直し、そんなことを考えていた。彼女が手を振ってこちらにやってくる。


 いまの彼の歳くらいか、もうすこし上か。どこが終わりなのか。もういちど右。


「見て。これ、猫」「うん」「いつも逃げられるのに、珍しいな、触らせてもらえるなんて。おーよしよしよし」
「よかったじゃないですか」と彼は笑ってみせる。手を伸ばすと、猫は逃げてしまった。「ああもう。急に手なんか出すから逃げちゃったじゃん」「僕のせいですか」「今のは明らかにそうでしょ」「そうかな」「そうだよ」
 そうやって彼女の住むアパートの前までやってくる、いつもの猫がようやくなついてくれたのだと喜んでいた彼女は急に真顔になって――「今日はありがとう」と。
 次の一言を期待していないではなかった、もちろんだとも。


 気がつくとそこは井戸の底――のような、どこかだった。これまでの小部屋とはちがい、周囲の円い空洞で、扉もない、もっとずっと狭い、天頂からはやはり光がさしこんでいる。もうどこへも行けない、上ることもできそうになかった。出口はなかった、当てが外れたということだ、行き詰ったということだ、彼は目を閉じる。先程からのすべてが夢のような気がしていた。どこかで――きっとあのマンホールに足を踏み入れたときに――夢の世界に入ったのだと、今はもうほとんど確信していた、だから目を閉じた。それだけでいいような気がした。
 あれは未来だったのかもしれない、彼女のアパートは、以前どこかで見たことのある、通りすぎたことのある場所だった気がしたから、いつかこれはほんとうのことになるのかもしれない。そうだ、あそこにいたのは紛れもなく自分だった。ただ、今はもう覚めてしまった、出口はない、もうどこへも行けない、これ以上は選ぶこともできない。さらに深い夢のなかへ潜るか、あるいはこの夢から覚めるのを待つか、二つのうちどちらかしかないのだと考える。
 彼は坐り、そしてゆっくりと寝そべる、目を瞑ったまま、瞼の裏の光景は目を開いていたときとほとんど変わりがないように思える。暗く、ただ、遠くに光が見える。そんな光もだんだんとぼやけ、薄まり、広がってゆく。


 乳白色の朝、雀の鳴き声と、しばらくして自分の息づかいも聞こえてくる。瞼を開く、外はもう明るい、窓から射し込む光が畳の匂いを運んでくる。
 彼はさきほどの夢を反芻する――彼女はたしかに若いころの妻だった。彼女を思い出すことも今ではずいぶん減ってしまったというのに、今日は夢にまで見るとは、いったいどうしたことだろう。これまでの人生を逆さから辿るかのような、鮮明な夢だった。ついに彼女であると知ることのできなかった自分の夢だった。そして彼は、あの日、あのアパートで一夜を過ごしたあとのこと、彼女の言葉を思い出す、こんな気持ちのよい朝のこと、もしほんとうに、これから私のことを愛してくれるというのなら、約束してほしいことがあるという、彼女の言葉。


「約束?」
「うん。私の守る約束と、あなたの守る約束」
「言ってみて」
「私は、あなたが死ぬとき、そのときには、きっとあなたの傍にいる、あなたより先には死なない。約束するよ」
「えらく大げさな約束だな」
「いいの。そして、あなたに守ってほしいのは――」
「守ってほしいのは?」
「私より先に死なないで」
「それは――」
 矛盾していた。それでも、ただの――ちょっとばかり大仰な――冗談だと思ったし、気も逸っていた。若かったんだ、だから。「わかった」と答えて――


「あさごはんですよ」と娘が呼びにくる。生返事をかえす。とうぜん、両方は叶えられなかった、自分だけが生き延びてしまった。約束を守ったのは自分だと、破ったのは彼女だと、意地の悪い、満足、自省、約束は、でもきっと、彼女のためのもので、きっと。ゆっくりと立ち上がりながら、立ちくらみを堪えて息を吸う、気持ちのよい朝を感じながら、そんな空気のなかに彼は傲然と存在していた。


 死なんてそれほど珍しくもないものだ――こんな仕事をしていると、むしろ日常とさえ言いたくなる。実際のところそうなんだろう。心電図が平らになり戻ってこない。急変、そして永遠に戻らない。そんな場面を何度も目にしてきた。夢は覚めれば忘れ去られてしまうけれど、その眠りが死だったとしたら。眠りから覚めないのならば、忘れるということもなく、その夢そのものが彼にとっての現実となるのだ。何度となくこの「装置」とともに人の死を目にしてきてわたしはそんな結論に達した。みなそう考えるからこそこの「装置」を使おうという人間が絶えないのだろう。ゆっくりと、手順どおりに死亡を確かめ、それを彼の妻に伝える。そしてわたしは彼に取り付けられた「装置」を取り外す。もうすぐ夜が明ける。