ここは僕の故郷の街の博物館、目の前には大きな立方体が偉そうに佇立している。この真っ黒な箱、大きさは三メートル四方といったところだろうか。あまりに黒く、表面に陰影さえ確認できない。空間にぽっかりと空いた穴のように見え、一目では立方体かどうかも判断し難い。上下左右から眺めてみて、ははあこれはどうやら立方体なのだと判らなくもないという程度である。
添えられた能書きを読む。2010年12月5日にこの街に突如として現われたというこの立方体、材質は現代の科学力を以てしても不明、あまりに硬く削りとることもできなければ、どんな波長の光の照射もすべて吸収する、そのくせ自身は何も放射しない。内部および表面に温度という概念が存在するかも疑わしい。こんなふうに「置かれて」いるということは重力の影響を受けるということだろうし、現れた場所からここまで「運んで」来られたということは触れることもできる、つまり電磁力の影響も受けるということにはなるのだろうが。簡単な調査の結果――とは言ってもそのほとんどは失敗に終わったのだが――人体に有害なものではないらしいという結論に至り、この最寄りの博物館に展示されている。おおよそそんなことが書いてある。
君は説明をはじめる。
君も知っているとおり、この黒い箱は一万年後の未来からやってきたということになっている。どうしてそんなことになっているのかといえば、なんのことはない、この箱が忽然と姿を現したそのときにメッセージが添えられていたからだ。その経緯は発見当時の新聞記事に詳しい。
第一発見者は湯川トメさん(82)、三年前に夫を亡くし、息子夫婦も帰ってこないただっ広い一軒家で一人暮らしをしていたトメさんが、ある朝目を覚まし雨戸を開けてみると、得体の知れない立方体が置いてあった。八十余年の長い人生で初めての出来事に驚いたトメさんは、とにもかくにもと隣の家で同じく一人暮らしをしている朝永与作さん(85)に相談してみることにした。
ところでこの二人は三ヶ月後に結婚することになる。そもそもトメさんは先立って逝った夫のことをはじめから好いてはいなかったのだ。親に決められた結婚。若き日のトメが恋心を抱いていたのは他でもないこの与作、もちろん与作もトメのことを好いていた。彼はこの街が未だ林業で栄えていた70年近く昔、村一番の力持ちとしてその名を知られていた。しかし彼の家はそれほど力を持っていたわけでもなく、専ら権勢を振っていたのは後にトメの夫となる湯川家であった。村いちばんのべっぴんと隣村まで噂されたトメは湯川の若旦那の我侭により若き日の恋を引き裂かれてしまったのである。与作はそれ以来、周囲の悪い噂に耐えながら独身を貫いた。二人は耐え抜き、ついにこの日を迎えたというわけだ。黒い箱の登場はほんの小さなきっかけに過ぎなかった。この黒い箱が老いらくの恋を成就させたという美談がひとたび週刊誌ワイドショー等で紹介されると、それ以来この博物館は他のどんな世代よりも老いらくの恋を成就させたいと願う老人カップルたちで賑わうこととなった。――この博物館が現在どれほどの人気か、それについてはまた後で話そう。
ともかく相談された与作さんにしたところで、今では自慢だった力も衰え、動かすこともどうすることもできなかった。そんなわけで結局警察に通報、現地の警察署から県の総合大学の物理学研究所に移され、傍に落ちていたというメッセージはそこでなぜか紛失されてしまう。誰かによって持ち去られとの噂もあれば、自然に消えてしまったのだという見解も耳にするが、真相は未だに不明である。
報道によればメッセージは間違いなく一枚の紙で写真も残されている。そこには現代の言葉、現代の活字でメッセージが記されている。内容を要約すると、「これから一万年の後に人類を襲う厄災を防ぐためにこれを送る」というもの。ほぼそれに尽きる。ただ、その厄災とは一体何なのか、そもそもこの黒い箱が何なのかについては全く言及されておらず、それらを突き止めようとすることこそが厄災を防ぐために何よりも重要であることだけが小さな文字で追記されていた。
一万年後の人類の考えるところによればこの2012年という時代はどうやら未だ紙に活字の時代であると認識されているようで、その上言葉と文字が間違っていなかったという事実を考えれば未来の考古学者/歴史学者の苦労が偲ばれるというものである。それに比べて科学者たちの体たらくといったら何であろう。まるでアメリカの有名アクション映画のような馬鹿らしい話ではないだろうか。だいたいそれならばサイボーグなりなんなりを送ってくれればよいのであって、人類を襲う厄災が予定されているにしてはあまりに悠長なやり方である。試行錯誤の末にそうするしかないということになったのならば――時間を超えて物体をこの時点の天の川銀河、太陽系、地球、日本に転送できているとはいえ――一万年後の科学者たちの頭の程度もたかが知れている。
ともあれそんなメッセージなぞオカルト信奉者でさえ信じないところであるが、そこで言及されていた物体、つまりこの真っ黒な立方体がたしかに現代の人間の技術力では全く究明のできない物質でできていたから大騒ぎになった。
第一報が報じられたのち最初に声明を発表したのは全国、いや世界中の新興宗教家たちである。なんといっても世界の終焉である、近いうちに終末がやってくると吹聴していた教祖たちの一部は信徒たちから大いに疑いの目を向けられ失脚したけれど、大部分はこの終末を無理矢理教義のなかに埋め込むことでさらにその名を轟かせることとなった。中にはメッセージを無視してこれは宇宙からの通信であるといかにも某SF小説/映画から影響を受けたかのような教えを説く者もいたし、現れた時期が時期だからだろうか、マヤのカレンダーと関連づけて語る者もいた――ただ、そんな教祖たちはやはり失脚してしまうのだったが。もちろんローマ法王やイスラム教の宗教的指導者等々も様々に声明を発表したものの、そのいずれもが、良く言えば深淵、悪く言えばどこか奥歯に物の挟まったような物言いであった。最後の審判、ジハードと言えばそれほど間違っていはいないのだろうが、どうにもこの黒い箱と未来の人類の存在には困らされたと見える。そのあたりは歴史というものを持たない新興宗教のほうがよほど有利であったのだろう。
とはいえ大多数の人間はそのような状況の元でも普段と変わらぬ生活を続けることになる。黒い箱の正体を解明せしめんとする事業への予算を通すくらいの寛容さはあれど、一万年も先の未来に思いを馳せるような余裕なぞあるはずがない。ただ不安に満ちた普段通りの馬鹿騒ぎをはじめることになる。『ペスト』という小説があるけれど、それを思い出せばその不穏さと狂騒の深層を感じられるかもしれない。そもそも「不安」なんてものは既に世界全体に蔓延していたものであるからして、燃え上がる藁屑に油を注いだって代わり映えがしないように、不感症とそれを取り繕う苦笑いのなかに取り込まれてしまったというわけだ。
例を挙げてみよう。環境運動家たちは一万年という期間をどのように捉えればよいか――楽観的なものなのか、悲観的なものなのか?――で内輪揉めをはじめることになった、テレビや新書で著名な倫理学者や社会学者その他大勢のいわゆる有識者たちもこぞって厄災について好き勝手書きに書き喋りに喋った。そんな具合だ。ただ、いずれも一万年という長すぎる未来に対して説得力のある意見なぞ言えようもなかったのだけれど。
そんななかで誰よりも困ったのは科学者、主に物理学の基礎研究者たちかもしれない。これまで基礎研究というのはとかく遠い未来を見据えて、あるいは知的好奇心のようななにものかに突き動かれててくればそれでよかった。それはとても尊いことだし僕はそれでいいと思うのだが、こうなってしまうと世間の声というものが無視できなくなってくる。今や人類の滅亡を防ぐという重荷を背負わされてしまったのだから。基礎研究に対する予算はいつぞやの「仕分け」なんてすっかり忘れてしまったかのように次々と承認されてゆき、物理学者を志す子供達もこの数年で随分増えた。しかし手掛りさえも掴めない状況は社会から彼らへの圧迫をより増すことになる。早くタイムマシンを開発して一万年後の人類に訊けばいいのだ、過去に戻る方法はいつか解決されると判ったのだからと無茶を言う者さえいる始末。一万年後という言を信じるならば今の世代のうちに解決しなければならない問題でもないことは明かなのだけれど、それにしてもどこか進んでいるという感覚はやはり欲しいものである。数え切れないほどの研究者たちが調査に挑戦しては散っていった。予算の獲得のためには何かしらこの箱に関連づけたほうが有利ということで、調査は次々に行われたのだが、どれ一つとして成果を残したものはなかった。
そうやって数多くの調査が為されたと言ったけれど、実はこの黒い箱が博物館から持ち出されることは当時も今もあまり多くない。今や世界にその名を知られるこの市立博物館であるが、館長および市長の独占欲のためであろうか、よほど大規模な調査でないかぎりこの展示スペースから動かすことは許されなかった。そもそもこの街の観光資源はまったくもってこの黒い箱しかないのだからそう簡単に動かしたくはないというのも道理であろう。世界じゅうから圧力をかけられてもそれに傲然とノーを突き付けるこの二人の存在によってこの街は大きくその姿を変えることになった。宗教家たちだけではない、街にとってもこの黒い箱は天の恵みとなったというわけだ。
そもそもこの黒い箱がメディアで報道されるのを最も喜んだのは他でもない館長自身である。報道関係者が街を訪れる際には必ず顔を出しあることないことをくっちゃべる彼のことだから、箱の盗難を恐れるあまり夜になっても家に帰らずこの黒い箱の横に布団を敷いているという噂が立ったのも当然の成行きといってよかった。その結果、この箱の密度は同じ体積の炭素よりもやや重くしかし床に対する摩擦がほとんど生じないことから、横から押せばすぐに動いてしまう、だから危険なのだと、たしかに気持ちは解らないでもないがやっぱり説明になっていないような説明が館長自身による公式な声明として各紙に報道された。つまり噂は紛れもない事実であったのだ。
そうして街は黒い箱を見物にやってくる観光客で溢れかえり、主要な産業は未だ林業であったお先真っ暗なこの街の経済を大きく転換させることとなる。多くの住民が観光業を営みはじめ、その経済効果は絶大、各種グッズも飛ぶように売れた。例のSF映画/小説にちなんでこの街では「モノリス」と呼ばれることが多かったこの箱の関連グッズのなかで最も利益を上げ知名度を伸ばしたのはなんといっても「モノリスまんじゅう」であり、ご当地萌えキャラであるところの「モノリたん」だろう。じつはこのモノリスまんじゅうを考案し発売したのは、老舗の和菓子屋として地元ではそこそこ有名だったあの湯川の分家であった。まんじゅうに対する研究開発の資金提供をした本家としばらくの間売上の分配で揉めたという噂もあったが、今は湯川一族がこぞってこの「モノリスまんじゅう」の生産と販売に従事していると聞く。その上東京の青山にアンテナショップを展開しているらしい。湯川家はどの家も建増しの真っ最中であることからもその羽振りの良さが伺えるというものだ。
そして巨頭のもう一方である「モノリたん」は市長自ら有名イラストレーターに依頼してデザインされたキャラクターである。今やアニメ化の話も持ち上がるほどの人気を博しているこのキャラクター、どうやら未来からやってきたモノリたんが冴えない小学生男子の未来を変えようと奮闘するという設定らしく、それはどこの青いロボットだという陰口も囁かれたが、モノリたんの老若男女に対する人気の前にはそれも屁のようなものだった。じつはこの市長、幼少のころからオタク気質で、この市長の座に上り詰めるまでは周囲にはそれをひた隠しにしていたのである――もちろんこれも週刊誌情報ではあるのだが。そしてついに念願叶ったと、彼は件のアニメの主人公を自分の名前にしようと現在奮闘中であるらしい。彼が幼少のころほんとうに冴えない男子であったかは定かではない。関係者はみな口を噤んでいる。
ずいぶん脱線してしまった気もするが、以上がおおよその状況説明だ。君が既に見聞きしている話も多かったかもしれない。こうして話しているうちに閉館時間も近づいてきたし、平日であるからさすがに人もまばらになってきた。そもそも僕が話したいことはもうすこし別のところにある。場所を変えよう。――そう言って君は僕を部屋に招いてくれる。
博物館からほど近いワンルームは目も当てられないような惨状だった。ごみ袋は散乱し服も本も構わずに床の上に積み重ねられている。パソコンのディスプレイは付けっぱなしだったらしく、君はその明かりを頼りに蛍光灯を付け、冷蔵庫からビールを二缶――冷蔵庫を開けるのも一苦労だった――持ってくると、片方を僕に渡し、開けるのももどかしそうに話しはじめる。曰く、そもそもあの箱は偽科学的代物であってこの宇宙の物理法則を書き換えるためにやってきたのだ。やってきた「時点」でこの宇宙の物理法則は書き換えられている。なぜそんなことを知っているのかといえば、僕はあの黒い箱とともにやってきたメッセンジャーであり観測者であるからだ――。線路沿いの部屋に電車の音が響く。壁にかかったカレンダーの少女が僕に微笑みかける。冗談を言うときの目でないことは僕にも判る。だとすれば――ついに狂ったか――どこから反論すればいいのか分からない。小学生の頃からの友人が故郷に帰ってきたら狂人になっているだなんて、実に哀れむべき状況であるとは言えまいか。僕はすぐにその部屋から逃げ出す算段をはじめるが、それでも君は旧い親友であるからして、いきなり突き放すのも悪いような気がしてくる。そんなお人好しな態度が僕をこの街に舞い戻らせたのだと警鐘が鳴るけれど、けっきょく僕はそれを無視してしまう。すこしくらい付き合ってやろうと思ったのだ。もうすこし君の話を聞いてみよう、と。危なくなったらほんとうに逃げ出してやればいい、故郷の街はあの頃とさほど変わらずにそこにある。それまでは旧友のよしみということで質問を混じえて対話を試みてやろうと考えた。もしかしたら、医者に連れて行った際の役にも立てるかもしれない。だからともかく、僕は君に質問をする。ここまでの思考におおよそ五秒。いま君は「物理法則戦」だなんだと唾を飛ばさんとする勢いで喋っている。まずはこの質問からだ。
「ちょっと待ってくれ、僕は君が何を言っているのか全然解らないんだが。そもそも君はあの黒い箱と一緒にやって来たと言うけれど、そんなはずはないだろう、僕と君とは小学生の頃からの親友じゃないか」
君はすこし顔を曇らせる、避けていた事実を目の当たりにしたかのような悲しそうな目をして、君は答える。君(つまり僕のことだ)に言うのは心苦しいが、じつはそれは偽の記憶である、というか、あの黒い箱と僕(つまり君のことだ)にとって、この宇宙の「時間」というものはほとんど意味のあるものでもない。そんなことを言う。そして僕の記憶は「ある意味で」捏造されたものである、と。友情というのは狂気の前では儚く脆いものであるということを僕は思い知る。すべてが捏造だと、あの少年の日の思い出がすべて偽物なのだと言われるショックは意外に大きいものだ。しかし、ともかく気を落ち着けなければならない。
「解った――とは言い難いし、悲しいことなのだが、まあいい。いったんそれは受け容れよう。ただ、それでもやはり聞きたいことは山ほどある。そうだな――まずもって、その『物理法則戦』とはいったい何なんだ。物理法則を書き換える必要がどこにあったんだ。そして君の、あの黒い箱の故郷はいったいどこなんだ」
「物理法則戦というのは」
ぶちゅりほうそくせん、と聞こえた。
「物理法則戦というのは、僕の勝手な呼び名でしかない。戦争というよりも、むしろゲリラ活動と言ったほうが適切かもしれないな。ともかく、この宇宙の物理法則そのものを書き換えることによって、利益を得る者がいる、そういうことなんだ。こういった物理法則戦はけっして珍しいものじゃない。この宇宙にだって、物理法則戦をしかけている奴はたくさん居る、そうと知られていないだけで、珍しいことでも難しいことでもないんだ。
そして、『書き換えられる宇宙』には、ほとんどの場合、それによって利益を受ける者によく似た観測者が存在しており、宇宙、太陽系、地球であると受益者であるところの彼が信じているものとよく似ている。だからこそこの宇宙が選ばれた。ある意味では、この、いま僕たちの存在する宇宙を創造したのはその受益者であるところの彼であると言うこともできる。なんたって、かつての君と僕がいた宇宙を種として、そのすべてを変容させてしまったのだから。そして、だからこそ、物理法則戦は多くの場合書き換えられる側の宇宙の誰にも気づかれずに終わってしまう。当たり前の話で、最初からそうであったかのように、すべての観測者に思い込ませることができるから。だけれども――」
ここで君は大きく息を吸いこみ、一気にまくしたてる。
「今回の受益者はそれを良しとしなかった、僕のような人間を送り込み、そして、君のような人間の存在を許した――いや、それは倫理的な話ではないんだ、そのほうが利益が大いと、彼が判断したからなんだ。ある意味で僕と君は彼の分身であると言える。時間軸は自由に操作され、僕たちのこの会話もあらかじめ予定されていたものなんだ」
まったく解らない。結局何が起こっているのか解らない。結局何を目的にしているのかも解らなかった。僕が怪訝そうな顔をしているうちに君は続ける。
「すまない、これはある意味では暗喩でもあるはずなんだけれど、それを直接に喋ることは禁じられているし、僕にもよく解っていない部分だってある。書き換えられた物理法則と同じくらい強い縛りなんだよ。こうやって仄めかすことくらいは、許してもらえているのだけど――。ともかく、こういったすべての事態は、あの黒い箱がこの街にやってきたことから始まっている。これは時間的な意味で言っているわけじゃない。受益者であるところの彼にしてみれば、彼自身の宇宙の時間軸からは逃れられないから――それができるのならば、物理法則戦の相手としてこの宇宙が選ばれることはなかっただろう――黒い箱を出現させた瞬間が時間的な起点と言えないこともないけれど、君にとってはそうではない。空間と時間の両方が遡及的に再定義されたと言えばいいのだろうか、いや、時空間全体に対して干渉があった、と言ったほうがより近いのかもしれない。たとえば、あの黒い箱が現れる『前』の君ならば、黒い箱に対する僕のあんな語りや、世界の変容をに対してなにか違和感を感じていたはずだ。しかし実際はそうではなかった。そうだろう?」
たしかに違和感のようなものは、なかったはずだった。しかし――
「それなのに、より『真理』に近いことを喋りはじめた僕のことを、いま君は狂気の現れとして捉えているにちがいない。それは言ってみれば、齟齬のようなものだ。もちろん既に予定されていた齟齬でしかない、受益者であるところの彼が用意した匙加減でしかないんだ。あの黒い箱が現れる『前』の君ならば、何か理由をつけて僕の部屋から逃げ出していたにちがいないのだから。――もちろん黒い箱なんてものが現われなければ、僕も君の旧友のままでいられたのだろうし、従ってこれはほとんど意味のない仮定だ。説明はこのくらいでいいだろう、さっきも言ったように、僕自身おぼろげにしか理解していないから、ずいぶん取り留めのないものになってしまった。じつは本当に君に伝えなければならないことは、ほんの一言でしかない。これは受益者であるところの彼からの、ある意味では君自身からのメッセージでもある。いいか、よく聞いておいてくれ。――『君の行動で物理法則戦に勝利しろ』」
結論を急がれてしまったところで何にもならないのだが。
「ちょっと待ってくれ、おかしくないか。そんなわけのわからない大役を僕が仰せ付かった理由も解らないし、そもそも物理法則戦に勝ってしまうと『彼』にとってはとてもまずいことになるんじゃないのか?負けたとしてどんな得が――勝ったときの利益さえ僕は知らないんだが――どんな得があるというんだ?しかも話を聞くかぎりではもうこちらが負けているらしいのだし」
「そうだな、まず――なぜ君が選ばれたのかという話だが――まったくの偶然なんだ。それは君と、ついでに言えば、僕でなくともよかった。僕が観測者で君がその対象となったことはまったくの偶然で、彼がその『物理法則戦』をはじめようとしたときに、たまたまこの宇宙が選ばれ――彼が自主的に選択したわけではない――、僕と君とが選ばれたのだ。なんならこう言ってもいい、こうして互いに『物理法則戦』を行う宇宙の集合すべてを司る神のような存在がいたとして、その選択だった、と、そんな理由でしかない。
そして――先に最後の疑問に答えよう――『負けている』というのは正しくない。物理法則戦というのは宣戦布告のない介入からしか生じないものだし、その一度の『攻撃』で終わりというものでもないのだ、今回の黒い箱とそれによる『被害』はそのような第一の介入でしかない。たしかに多くの物理法則戦はその一撃で決まってしまうと聞くけれど、すべてがそうだというわけでもない。『反撃』されて終わることもあるらしい。だから君はこれから『反撃』を行なわなければならないし、そう定められている。
そしてもう一つ。まずもって、具体的な利益がどうなのかという話には触れられないということだけ断っておく。すまない、先程も言ったとおり禁じられているのだ。――ともかく、物理法則戦への勝利は受益者であるところの彼にとって不利益な結果をもたらすはずで、彼がそれを望むというのはおかしくはないかという疑問になら答えられなくもない。これについては、彼のことを彼自身の世界におけるテロリストのようなものと考えてくれればいいだろう。彼は僕のように他の宇宙から送られてきた人間ではないのだけれど、彼自身の宇宙の物理法則を書き換えてしまいたいと望んでいるのだ。そんなことをしてしまえば彼自身の存在が消えてしまうかもしれないけれど、彼はそれを望んでいる。これはたしかに通常ではあまり有り得ないことではあるが――偶然そのような結果が引き起こされることはあるらしい――、ともかくその点に関しては君は心配しなくていい。君はこの、僕と君の宇宙の法則を『正しく』戻すことに注力してくれればいいというわけだ」
「まだ引き受けると決まったわけでもないんだぞ」
「いいや、君は必ず引き受けることになる。この場では拒否したとしても、君はかならず、意識しようとしまいと、これを聞いた君は、かならずその行動を起こすことになる。それが何であるかはまだ言えないけれど。そういうふうに決めれらているんだ。受益者であるところの彼が物理法則とともに、そのように運命を書き換えたのだと言ってもいい。もちろんこの対話だってそうやって予定されていたもののひとつなんだ。そうしてみれば結局、彼にすべて操られているのだと言えなくもないのだが――実際はそうでもないというのが、面白いところでもあるんだろうな。僕にはなんとなくそれがわかるよ」
そう捲し立てると、君は急に黙りこむ。お互い手付かずであったビールを無言のうちに飲み干し、結局その日は解散となった。君は満足そうに見送ってくれたけれど、僕はきっと、ずいぶん不味そうな顔をしていたことだろう。
帰り道で君の言葉を思い返す。正直なことを言えば、頭がどうかしてしまったとしか思えなかった。そうやって歩いていると、電灯の下でふと、君のことを信じてみたところで問題はないのだと気がついた。僕がなんらかの行動を起こそうとしようがしまいが、どのみちやってしまうのだと君は言っていた。物理法則戦などと大層な呼び方をしていたけれど、電子的な光に満ちた司令室のなかで制服たちが蠢き叫び声を挙げるようなものでもない、戦車もなければ戦闘機もない、終結したあとの結婚を約束した相手がいるわけでもない。すべて定められているというのは胸クソの悪い話であると言えなくもないけれど、今の僕にはそのほうが気が楽だ。疲れているのかもしれない。気負いのようなものはすべて都会に置いてきてしまった。これから何をすればいいかも考えていなかったところだったわけで、しばらく君に付き合ってやるのもいいかもしれない。
そんなことを考えていたら家に着いた。父はもう寝ていた。母は妹とテレビを見ている、天然パーマの地方タレントがバイクに乗っている。彼らの人生も「改変」されてしまったのだろうか。そもそも彼らは僕の家族であったのだろうか。どこか別の宇宙の、誰とも知らない彼=僕=君の好きなように操られているのだろうか。もし僕がすべてを「元に戻して」しまったら、その事実は、記憶はどうなってしまうのだろうか。向こうの宇宙の「彼」の家族は?せっかく夕食を用意していたのにと言う母の不平を通り過ぎ、僕は自分の部屋――半分物置のようになっていた――に入る。すぐに寝てしまいたかったけれど、いつも通りに日記を書くことにした。一人暮らしをはじめてから毎日こうして日記を書いている、めったに見返すことのないそのページを捲ってみても、「改変」の証拠など見つからなかった。いつの間にか君の言ったあれこれにすっかり影響されている自分が可笑しかった。疲れているんだ、と声に出す。明日はもっといい日になるといい。この狂った世界で――いや、これは君の見方だな――しかし――この狂った世界で、未確定な明日なんてものが、本当にあるとすればの話だが。
彼は日記を書き終え、眠りに就く。彼の意識は消える。この物理法則戦が彼の勝利に終われば、彼はそれ「以前」の彼に戻ることだろう。彼はまったく別の部屋で目覚めることになるのだ。そして彼の日記は彼の世界から消えてしまう。ただ、あなたの宇宙にはこうして形を留めたまま――そう、あなたが手に取っているこれは、他でもない、その偽科学的代物だ――あなたの宇宙は、あなたが当然と考える物理法則すべては、彼の日記が現れることによって干渉を受けてしまった。さて、僕はこれから何をすればよいのだろう?