これは自伝です

April is the cruelest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.


 一月二一日午後〇時四〇分ごろ、東京都板橋区のアパート管理人(58)から「アパートの一室で女性が包丁で刺され死亡している」との110番通報があった。駆けつけた警視庁板橋署員によると、死亡したのは一階に住む××真理さん(27)とみられる。側には凶器と思われる包丁が残されており、遺体は死後数週間が経過していた模様。警視庁は殺人事件と断定し捜査を始めた。
 ××さんは一人暮らしとみられ、自宅の玄関ドアは無施錠だった。室内の電気はついたままで、財布やカードなども残されていた。
 同じ階に住む女性は、「(家に)あいさつに来られたことがありましたが、明るく穏やかな感じの人でした。決して恨まれるようなタイプの人ではありません」と不安そうに話した。


ヒトミちゃんへ


 こうしてヒトミちゃんに手紙を書くのも、ずいぶんとひさしぶりだね。いまどきこんなふうに紙の手紙を書く人なんてほとんどいないだろうから、「ずいぶんとひさしぶり」っていったって、ふつうの人なら、もう何年も書いてないとか、そんな感じだったりするはず。でも、わたしにとってはそんなことなくて、こうしてたた一ヶ月ほど手紙を書いていなかっただけで、「ずいぶんとひさしぶり」に感じてしまうのです。こうしてふつうに手紙を書いてるだけで、それはみんなにとってはすごいことなのかもしれないね。なんだかヒトミちゃんがずいぶん遠い人になっちゃった気がします。じっさいすごく遠いところに住んでるんだけどね(笑)
 そっちはあいかわらず寒いのかな。わたしはヒトミちゃんの住んでるところにはいちども行ったことないからよくわかんないけど(それどころか、本州の外に出たこともないんだから!)、ヒトミちゃんがこないだの手紙で「ずっと寒いと思ってたけど、まだまだ寒くなるからびっくりです」って書いてたから、きっとこの東京よりももっともっと寒いところなんだろうね。前に手紙を出したころにはまだ小春日和みたいな日も多かったけれど、もう今じゃぜんぜんそんなことなくて、今日なんてついに初雪が降りました。ビル風が強くて凍えちゃいそうだから外に出たくないけど、そうも言ってられません。お金貯めなきゃ新しいコートも買えないからね。
 そうそう、お金といえば。こないだの手紙にはどこまで書いたんだっけ。風俗の仕事をはじめたってのは知ってるよね。どんなことをする仕事で、いつもどんなふうに働いてるかってことも書いたはずだよね。あれからなかなか手紙書けなくてごめんね。いろいろあったんだ。いろいろ、ね。……でも今日はそんなことをヒトミちゃんに伝えたいわけじゃなくて。今日は、こないだの手紙のつづき。どんなふうにお仕事してるのかってのを、前よりもっとくわしく書いてみようとおもいます。もうちょっとわたしのお仕事について知ってほしいっておもうから。ヒトミちゃんが考えてるほど悪い仕事じゃないんだよ。
 なんて言いつつ、書く前にはいろいろ考えてたんだけど、こうやって便箋を目の前にしてみるとうまくまとめられるか不安だったりもします。だからまずは、ひとりのお客さんを例にあげて、書いてみるね。今日相手したのは三人で(多いのか少ないのかよく分からないけど、たぶんすくないんだろうなって思う)、とりあえずその三人目の人について。今日の、いちばん最後に来た人だから、まだよくおぼえてる。じゅんばんに思い出して、じゅんばんに書いていこうと思います。
 えーと、まず部屋で時間を潰してると、「お客さまでーす」って言われるんだよね。私はだいたい本読んでるかな、その時もそうだった。で、呼ばれたらわたしは「あー来た来た」って思うわけ、どんな人だろうって。かっこいい人だったらちょっとはましだなあなんて思うけど、そんな人めったに来ないから期待してない。たいていおじさんなんだよね。このあたりのことは前の手紙でもちょっとだけ書いたけど(そうか、あんなこと書いたからヒトミちゃんに心配されちゃったのかもね)、やっぱりいまだに不安になっちゃう。もちろんひどいことされそうならお店の人に助けてって言えばいいんだってわかってるんだけど、いままでそんなことなかったから、ほんとにできるかどうかわからない。でもまあ、そうやって考えてるうちに自動的に体は動くし、すぐにお客さんと顔を合わせるわけだから、そんなふうに考えてる時間なんてほとんどないんだけど。ちょうどそのときに読んでた本がすごくいいところだったから、すこし気づかないフリしてみたりもしたんだけど、もちろんそういうわけにもいかない。ほら、余裕そうでしょ?そうやって、どんな人だろうって考えながら、立ち上がって、部屋の外まで行くわけ。で、カーテンが開く。そしたら今日のその人は、黒ぶちの眼鏡をかけて、ジーンズに灰色のパーカーを着たもっさりした感じの人で、たぶんはじめてなんだろうな(最近すぐわかるようになってきたんだよ!)、ちょっとおどおどしてた。はじめての人だったら恐いことにはならないだろうなって安心はしたけど、はじめての人ははじめての人でちょっとめんどくさいんだよね。ダメなことはダメって言わなきゃいけないし、そうじゃなかったらこっちからリードしていかなきゃいけないしで。
 ともかく、ちょっと安心しつつ、わたしが「こんにちは」って言うと、彼も「こんにちは」って答える。いっしょに部屋に戻って、いちおう「はじめてですかー?」って聞いてみたら、「あ、いや、二回目……」「そうなんだー」「あああ、ごめんなさい、嘘つきました、はじめてです」なんて笑ってるんだけど、まずここでチェック。歯が黄色いんだよね。煙草喫ってるんだなってすぐ分かる。わたしも煙草喫うけど、やっぱキスとかするときに、相手の口から煙草の匂いがするの、あんまり好きじゃないんだよなあ。勝手だなって思うけど、そうなんだから仕方ないよね。なんて、そんなこと考えてたら、「どうしたらいいか分からないんですけど、とりあえず脱げばいいんですかね」って、あれれ、ぼーっとしちゃったって気がついて、「そうですよー」とか言いながら私も服を脱ぐ。いろんな人がいるみたいだけど、私はこのときにタオルで体隠しちゃうほうなんだよね。どうせシャワーに入ったら二人とも裸なのに。男の人もやっぱり隠す人が多いかな。なんでだろうね。彼にタオルを渡して、シャワーの扉をひらく。こっちだよ、って、ちょっとタメ口にしてみたりして、こういう距離感のつくり方にそろそろ慣れてきた自分が誇らしかったりして。父の持っていた「プレイボーイ」誌。それにしても細い人だなあって思いながら、何歳くらいなのか想像してみたりもする。服着てるときは細そうに見えても、三十くらいになるとみんなだいたいお腹出てるっぽいんだよね。だからまだ二十代半ばかなって思った。一人暮らしで、あんまりお金なくてご飯食べられないのかな。そうそう、お母さんのつくるご飯が好きな人とそうじゃない人がいて、わたしはすごく好きだったから、こうしていま一人暮らししてるとときどき懐しくなっちゃうんだけど、私はお母さんじたいはあんまり好きじゃなくて。ご飯のおいしさとお母さんが好きかどうかって、ぜんぜん関係ないんだよね。当たり前のことかもしれないけれど。「今日はお酒飲んで来たんですかー?」「あっ、はい、そうです、でないとなかなかこんなとこ来れなくて」「顔真っ赤ですよ」「すぐこんなんなっちゃうんですよ」「一人で?」「ですです」「タメ口でいいですよー」と、シャワーの温度たしかめて、体を洗います。
 前のほうを洗って、後ろを向いてもらって、背中やおしりも洗って、もっかい前向いてもらって、それからちんこも洗って。ちんこはかわいくて好きだし、肌のぬくもりは必要だけど、男の人そのものってのはいつまで経っても好きになれない。彼らはみな醜悪で歯止めが効かない。そうそう、わたしは、この時に体を触ってくる人とそうでない人でけっこうその後どうするかっての変えてるんだよね。触ってくる人には、なんていうか、受けるかんじですすめてくんだけど、触ってこない人にはこっちからがんばっていろいろしてあげる感じ。その人はどっちだったと思う?じつは触ってくる人だったのです。女の人と手もつなげなさそうに見えたのに、そうでもなかったみたい。「どこまでしてもいい……のかな」。「あー、それはあとで説明するけど」と、いつもの口上。そういえば、わたしが高校生のころ唯一つきあってた人は、けっきょく手をつないでくれなかったな。あのころはまだわたしも病気がちでそういうの好きそうに見えなかったからなのか、あの人もきっと遠慮していたんじゃないかなって、いちおう思ってあげてるんだけど。そう、このお客さんだってこんなベタベタしないで、遠慮していた過去があるのかもしれないけれど、けっきょくあのときの彼も、このお客さんも、同じような経験をして、きっと今はこんな感じ。寂しいんだろうね。だけどわたしはそういう男の人は嫌い。そうだよ、魅力もなにも感じたりはしない。笑いかけると彼の顔は醜く崩れる。もうすこしだけ恥を捨ててくれたほうがやりやすいのになって思う。ギラギラしてるのは分かってるんだから。だってずっと怖かったんだ。狭いシャワー室の湿気で冷静になれるし、イソジンの匂いでずいぶん落ち着ける。わたしは自分を自分のなかから抜きだして、それから事に及ぶ。赤い液体は泡立ち、匂い、薄まる、「はい、うがいしてくださーい」と彼女は言う。バスタオルで体を拭き、シャワー室の扉を開けると、ちょっと寒い。
「さて」「はい」「じゃあどうぞ」とベッドを示す彼女。「えっ、あ、はい」「どうしたのー」男の乳首に触れる。促された彼はベッドに仰向けになり、彼女も男の脚の間に収まる。息をつき、三つ数えると彼のすべてが見透かせる気がしてしまう。ヒトミちゃん、わたし、期待されることは嫌いじゃないんだよ。軽い言葉を投げかけると、それがそのまま返ってくるのが楽しくて仕方がなかった。「ふふふ」「えっと、なんか恥ずかしいな」「大丈夫大丈夫」。弄くり回すうちに欲望の底まで潜ってゆけるんだよ、そう言ってたあの人はもうこの店を辞めてしまって、そういえばもうずっとそんな面倒な言葉を口にしていない。音を立てると喜ぶんだよみんな、なんてことも言っていたけれど、そんなことはもう知っていたし、そんな話のあとだったからなんだか違う話をしているんじゃないかと勘繰ってしまったりもした。今だって彼女はそんなふうに考えているのかもしれない。音を立てること。男は、咥える彼女を見つめる。ヒトミちゃん、わたし、最近読んでる本があるんだ。「すばらしい日本の戦争」っていう本で、死躰のことばかり考えている、気のくるった「すばらしい日本の戦争」って人をポルノ小説家の主人公が助けようとしてる、その死躰を頭のなかから追い払ってしまおうと頑張ってる、そういう話なわけ。えっちな手をあれこれ使って、殺人事件を犯して頭のおかしくなった「すばらしい日本の戦争」にレッスンしてあげる、それってすごいことでしょ?私もそういうことをしてるんだよ、本番はしないけどね。だからこのお話も、きっとハッピーエンドに決まってる。
 男は上半身を持ち上げ彼女の胸をその手でつつむ。胸。背筋をしている僕は中学生で、部活動の時間にずっと麗しの先輩のことを見つめていたあの頃。バレーボール部で、男女の合同練習、彼女がたまたま主審をしていたから、彼は副審を名乗り出て、相対するだけで幸せだったけれど、自分のハーフパンツの前が膨れてくるのを止められなかった。陰茎を冷たいポールに押し付けるようにしていた。あのときはひどく蒸し暑くて、それなのに今となっては、シャワーの中でさえ彼は勃起しなかった。彼女は顔を上げて「あっ、おっぱい触りたいんですか」と尋ねる。笑顔は崩さない。「どうです、おっぱい大きいでしょう」「いや、うーん」「いいですよ、知ってますから」。二人とも笑顔は崩さない。「いや、なかなか似合ってるよ」と彼は乳首を触る。「似合ってるってなんですかもー!」と彼女はまた咥え込む。数度の往復のあと、彼はまた上半身を起こす。どうにも気分が乗ってこなかったから。わたし、あんまり胸には自信がないんだよね。大きい人たちは、人から見られるばかりだったり、肩が凝ったりでいいことないって言うけど、わたしはそんなことなかった。ヒトミちゃんもおなじような愚痴を言ってるじゃん、だから、悔しいんだよ、いつも。きっとこの人に胸の大きい幼なじみがいたりするんだろうな。こんな寒い日にその子とこたつの下での脚が触れたこと。殴られた姿を笑って見つめていた。今だって彼女は名前で呼んでくれる。クソ女め。彼は髪を軽く掴み背中のほうに向けて徐々に手を下ろしていく、彼女はなんの反応も返さない。彼は結局手持ち無沙汰で、もういちど仰向けに寝ると、彼女が言う。「ローションつけてもいいですかー」。
「あ、いいですよ」。サイドテーブルの上に載った本と灰皿とキッチンタイマーとその他もろもろを押し退けて、彼女は容器を手に取る。性交のほかに娯楽などなにもないあの土地で。そんなのもには興味のなかった(ほんとうだろうか?)彼は親から与えられたノートパソコンと始終向き合っていた。なにをしていたかといえば、すべてはそこから逃れたいという思いを強めることばかり(二次元美少女は?)。友人たちのことはみな見下していたし、自身の父親でさえその対象であった。憧れは(性欲は?)その間粘度の高い欲望であり続け、何ら約束などなかったけれど、間違いなく希望と呼べるものだったはずだ。それが唯一の方法だったはずだ。最善の道を求めることのできたあの頃、粘度の高い欲望は肛門にも塗りたくられる。
「うわ、そこはちょっと弱いん……あはっ」「あ、弱いんだー」「うん、だから」「それそれそれー」。右手の往復運動とは別に、左手で弄ばれる肛門を、そういえば、いつのまにかそういうコミュニケーションしかとれなくなっていた、ひょ、ひゃっ、処世術といえば処世術だ、とにかく笑って応じればいい、怒りを現わにするなんてことができるはずもなく、ずっとずっとずっとずっと笑っていた、あひゃっ、どうしてそんなことが、ひっ、できたかといえば、そりゃあ自分がこのなかでいちばん頭がいいと信じていたからだ、そんなもの、いつか自分は、どうせ自分はこんな奴らのいる世界から逃げ出すことができる、それは半ば確約されている、そのはずだ、よりよい世界へ、よりよい世界へ、希望があったから笑っていられたし、もちろんそれは、はうっ、イジられて、そうやって笑って、いつのまにかそれ以外のやり方が分からなくなってしまった彼の、肛門は、いかん、そろそろマズい、まだたぶん十五分くらいしか経ってないだろ、これ。父の捨てた――捨てさせられた希望。そしてもう一度、こんどは唇で、彼女の乳首に触れると、拗けた体から捻り出すように声が漏れる。演技だ。それくらい彼にも分かっていたけれど――自らの嬌声はそうでなかったとでも言うのか?「じゃあ今度はわたしのも」と顔を上げ、右手を離す。尻を彼の頭の上に突き出す。徐々に近づいてくるそれが、彼にはいかにも汚ならしいものに思えた。下着の痕を強いて見つめる。痛くはないけれど、かといって何かを感じるでもない、彼女はこんどは緩やかに、こんなものいい加減見飽きたと、ふたたび読んだ本のことを考えはじめる。声を上げるのも忘れて、太股を舐めながら。
「すばらしい日本の戦争」の結末は、まったくもって幸せとは言いがたいものだ。「すばらしい日本の戦争」は最後には死んでしまう、そして主人公のポルノ小説家の頭のなかに死躰が棲みつく。けっきょく彼女は、そんな物語の結末を読むことができたのだろうか、あるいは、読まずに済んだのだろうか。僕は、街に出てみて、いったいどうなった?あれが間違いなく希望であったと気づくのはすべてが不可能となってしまってからで、他方、劣等感として生きづく欲望はもはや希望ではなかった。痛みはなく、疲れだけが舌の根と頬に蓄積していくのだった。笑顔とクンニリングスしかそこにはない。希望への逃避を重ねたあの頃と何が違っていたのだろう。なにかを求めなければならないと彼は考えた。そして、そこで見つけたのだ、彼女を。さて、そろそろ首が痛くなってきた。「ちょい待ち」。
 あー、やっちゃった、ってその時思ったんだよね。私だってそうだけど、やっぱり、するなら感じてほしいって思うんだろうね。すっかり本のこと考えちゃってた。この人の頭のなかが死躰だらけだったらどんなふうだろう、なんて思ってたから、声を上げるの忘れちゃってて。だからもっかい向き直して。乳首を舐めながらすこしずつ下半身へと移ってゆく。素早く扱いていると、彼がまた体を起こし、こんどは唇にキスしてくる。意を決したように目を瞑った男は、ひどく滑稽に見える。いつもそうだ。望まれない口づけをされる、無心になる、目を開けると、男はみな、なにかもっと遠くのものを見ている。ありもしない希望を探そうと必死になっている。「すばらしい日本の戦争」は深淵を見つめ、そこにはうつくしい死躰たちが見える。いつもそうだった。頭を撫で、肩を撫で、彼は腕をそっと掴む。縋りつくように。
 彼がはじめてマリを見たのは、自宅からすこし離れた小さな喫茶店でのことだった。ただの一度きり。それから夢で二度ほど彼女を見かけ、四度目に会ったのは近所の古本屋で、そのころ彼女はドトールから支払われる900円の時給をすべて漫画と小説につぎ込んでいたことを、懇意であった古本屋の店主から聞いた。その後また三度の夢への出現を経て、彼女の家を突き止めたのは再びその古本屋での、通算八度目の遭遇のあとだった。あれからたった一年。ずっと彼女を見つづけてきた。過去形だ。僕が僕としてマリと接したのは、たった一度だけだ。過去形。
 ようやくキスをした。夢中になれるものを探していた彼は、ようやくそこまで辿り着くことができたのだった。彼女はきっと想像している、僕のはじめてのそれを。離ればなれになって二度と会えないからと舌を絡め合ったそれを、酔っぱらって、友人たちは隣の部屋で騒いでいた、ひどく落ち着かなかった。もう二度と関わることもないだろう友人の家で、何事もなかったかのように二人きりだった部屋を出た僕とあの子は、それから地球の裏と表に、文字通り引き千切った。股間を扱く手は止まらず、もはやそれを止める理由もなかった。「あっ」だの「ううっ」だのと声を上げながら、速度を上げる手の動きに合わせて腕を掴み、そして離す。ベッドに背中を打ち付けるように天井を見上げ、腹に生暖かいものがべたべたと落ちる。それが唯一の到達点であったし、そこから先、何をすればいいのか、彼にはもう分からない。自分だけが彼女の部屋を覗いたのだと信じることにした(まったくその通りだった)。彼が手にすることのできた唯一のものは、その欲望に尽きた、なんだってあると信じていた、ここには。親に金の無心を繰り返し、読めない本を読もうとした。自分が致命的に出遅れているのだと知ってから、彷徨うしかなかった、藻掻きさえしなかた、沈む舟を渡り歩いただけだった。読めない本でしかなかった。でももう遅いんだ、すべては手遅れだ。
 ウェットティッシュで精液を拭かれる不快感に耐えながら、彼女は快活に喋りはじめる。そこからはすごく楽しいんだ、ヒトミちゃん。わたしの思い通りになった人間がそこにいるんだから。ここでやっと自分に戻れるんだ、わたし。……ただ、口の中に出すってオプションを付けられなければ、だけどね。わたしのほうは、すこしも気持ち良くなんてないんだから。「出ちゃったね」「出ちゃったね」。そこでもういちど、唇を重ねる。背中に手を回す。「じゃあシャワー浴びよっか」。彼女は立ち上がる。その女はもはや美しくもなんともなかったけれど、それをとりまく状況すべてが愛しく思えた。隣の部屋で嬌声を上げる男女、鏡は蛍光灯の光を反射して無惨な陰茎を繰り返し繰り返し、容赦なく照らす、希望は成就し、欲望も叶えられたのだから、それは微笑ましいだけの、ただの器官だった。胸を小突く。「おっぱい」「おっぱいだよ」「おっぱいだねー」。想像力など無くても、すべてはそこにあったし、想像力の働く余地もなく、結局はそれ以上のものでさえなかった。体を洗い合う、彼女の顔をまっすぐと見つめる。彼は醜い笑みを絶やさないが、その意味は変わってしまった。客観的に言えば、それは慣性でしかなく、貼り付いたシールを剥がそうとして残った、したがって前にも増して醜い、粉々に砕かれ、煙になるまで消えることのない傷跡でしかない。「じゃあ、これでうがいしてくださいねー」。血と言うにはあまりに薄すぎるその液体が排水溝に流れこみ、すべてを捨て去って、僕の口内も消毒され、口づけの記憶も消されてしまう。消されてしまったのだ。故郷から遠く離れてようやく成し遂げたことが、これだと、友人と呼ばなかった友人たちに知らせてやる必要があろう。手遅れになってまったのだと。
 シャワー室から出て服を着る。彼女はまだ体を洗っている最中だった。キッチンタイマーはまだ10分を残していた。「うわっ、早すぎるな、もったいね」。と同時に彼女も外に出て。「あっ、いじっちゃだめですよ」「あ、いや、そういうわけじゃなくて、まだ時間あるから……煙草喫ってもいいかな」「いいですよー。私これで今日の仕事終わりだし、帰る支度ちゃってもいいかな」「いいよ」「ありがとー」。真っ赤なブラウスを着る彼女を横目に鞄からライターと煙草を取り出す。「お正月休みですか?」「そうそう、だから実家に帰ってたんだ。で、今日東京に戻ってきたっていう」。こちらで働くようになってからはじめての帰省だった。元日の夜に、はじめて父と二人で酒を飲んだ。「正直ちょっと羨しい」と父は言っていた。
「実家どこなんですか?」
「岡山岡山」
「あー」――姫路のほうで教員やってたことは知ってるよな、爺さんに呼び戻されたんだよ。
「広島の隣だよ」と言って僕は煙草に火をつける。
「知ってますよ!たしか倉敷があるところですよね。一回行ったことありますよ」
「そうそう、ってか、それしかないかな。しかもうち、もっと田舎だし」
「あー」
「マリちゃん、だっけ?」
「そうですよ。あ、はいこれ名刺」と、ちょうど服を着終えた彼女が渡してくれる。
「あ、ども」――こっちには分かってくれる奴がいなくて詰まらないと思ってたんだ。同じことで感動してくれる奴がいないんだものな。
「もしよかったらまた来てくださいねー」
「ああ、うん。……マリちゃんはどこ出身なの?」
「あ、だいたいずっと東京ですねー」
 もちろん、そんなことはもう知っていた。手紙のなかで、ヒトミちゃん、君が「横浜生まれ東京育ちのマリには分かんないだろうけど」と何度も書いてよこしていたから。
「でも憧れますね、なんだか、田舎みたいなところって」と彼女は続ける。
「そんないいところじゃないよ」――そんないいところじゃないよ。
「そうかなー」
「そうそう。マリちゃんみたいな可愛い子もいないし」
「えっ?……あ!そういうこと言う人だったんですね」
「え、だめかな」
「いや、嬉しいですよ。あんまりそう見えなかったってだけで。ごめんなさい」
 なんとなく、なんとなく僕は顔を近づけてみた。キスをするんだ。愛なんてない、それを。
「どうしたの急に」と彼女は笑う。気味悪そうな表情を隠し切れない、そんなことくらい、僕にだって分かる。
「だめかな」
「いいですよ」とこんどは彼女のほうから顔を近づけてくる。結局のところ、僕だって父と変わりはしないのだ。こんな口づけをしておいて。
「希望ってね」
「え、はい」
「希望が欲しかっただけなんだ」――どれも失敗した。
「なんのこと?ていうか、あ、ちょっとごめんなさい、火貸してくれませんか?ライターが点かないみたい」
「ああ、いや、ごめん。なんでもない。……そうか、マリちゃんも煙草喫うんだね、はい」
 それから、どうでもいい話をして、キッチンタイマーが鳴る。なんの熱もない手を繋ぎ合い、離し、僕は彼女と別れた。


 ヒトミちゃん、こんな具合なんだ。どうしてずっと手紙が来ないのか、君は心配していたよね。あれから何度かマリの家に君からの手紙が届いたのも知っている。あれからずっと悩んでいたけれど――僕はそうやって悩めることがなんとも嬉しかった――やっぱり君にはちゃんと説明しておくべきだと思ったから、こうして手紙を書くことにした。動機はもう十分に書きつくしたつもりなんだが、ほんとうのところ、君にちゃんと分かってもらえるとは思わない。同封した新聞記事はもう読んでくれただろうか。あれは僕がやったんだ。これから自首するつもりでいる。


――さて、僕はこれから、いったいどうすればいいんだろう。残念なことに、僕にはまた春がやってくる。