四千の日と夜

 式場は街中にあったため、三人は廊下からエントランスへと抜け出しそのまま賑やかな声のする街灯のもとへ歩みをすすめる。月はこれでもかと光を落としその波長は可視光のすべてを含みまっしろ、周囲の建物の陰影を際立たせ、宙を走る自動車たちの影を動かす。「もういいんじゃないか」、その一言を発したのが三人のうち誰であったかはさほど重要ではなく、ともかくその言葉を触媒として三人はこの月の光のもとに曝け出されたのだった。


 自動車の排気ガスが沈降し空気の淀んだ式場の階段下で彼らは同時に立ち止まり、そのうちの一人、野沢が言う。
「あいつがああやって幸せになったところを見とどけてやったんだから今日はもういいっしょ。おれはさっさと自分の幸せってやつを見つけなきゃならん。そのためには、これ以上こんなところにいるのは時間が惜しいってことだ。やっぱおれも結婚しなきゃだな、結婚!」
 中肉中背で顎に無精髭をたくわえた彼のネクタイは胸のあたりでひん曲がっていて、頭上をバスの影がかすめる。肉屋の主人が牛肉をひきずる音が聞こえてくる。週末の繁華街は大盛況。肉の染みがいくつものすじを作り、通りにたくさんの線を描く。高橋(三人のうちのもう一人だ)はその染みのうちのひとつを辿りながら歩いてゆく。「なあ成瀬、おまえは結婚したりしないわけ?」
「うーん」成瀬と呼ばれた女は答える「どうかな、だって私まだハワイにも行ったことないしねー」彼女は高橋が辿ったのとは別の線の上を歩きはじめる。二つの線は交差しておらず、足元からずっと先まで平行に続いていく。週末らしい生臭さが高橋の鼻をつく。「ハワイってどういうことだよ」
「ハワイはハワイでしょ、独身でハワイに行かないまま結婚なんてしたくないってこと。まだまだやりたいこと沢山あるわけよ」
「お前、たまによく分かんないこと言うよな」と高橋は言い、黄色く光る街灯の下で立ち止まる。もたれかかる。当局が気紛れに街灯の色を変えるようになったのは高橋が五つのことだった。ここ最近はずっと黄色の日が続いている。ちょっと珍しい。よく分からないものだ。高橋は青色の街灯が好きで、黄色は嫌いだったし、そんな日はできるだけ外に出ないようにと決めていた。なんだか気持ちが滅入ってしまう気がしたのだ。
「ブルーハワイってやつかー」という野沢の声に心を読まれたような気がして高橋は内心慌ててしまう。「青ね、青……」地面には血の赤が敷石に染み、空は月の光と街の光で白んでいる。街灯は黄色い。では、青は?
「そうそう、青い海、青い空、白い砂浜。ブルーなハワイを一度くらい一人占めしなきゃでしょ」
「青、青……」
「かき氷でしか見たことない大好きなブルーハワイを全身で受け止めたくてね」
 そう言って成瀬は立ち止まり、空を見上げる。片足を軸にくるりと周り、一瞬だけ地面を見下ろす。止まる。運動量は保存される。スカートが回転の方向に揺れ、また見上げる。そして髪も揺れる。地軸の傾きのおかげで日本には四季があって、それでもハワイは年中夏なのだろう。気紛れに色を変えたりしない、年中透き通るような真っ青なのだろう、高橋が言う。「で、そのハワイとやらに行く予定はあるのか?」
「ないない、ぜんぜんない。お金もないし時間もないよ。今は仕事がけっこう楽しいしね、まだいいよ」
「じゃあ結婚もなしってことか」と野沢。
「ないねー……っていうか、どうしたの?さっきから二人とも結婚結婚って」
 結婚式の後だから当然だろうと野沢は答え、高橋のほうへ目をやる。いつのまにか三人とも立ち止まっていた。物語が暗い路地のすきまから吠える。最近は保健所も取締りを諦めているらしい、こんな話をしているときでなければそれほど気にならないものなのだが。声の感じからすると、たぶん不可能な初恋の物語といったところだ。
 白く靄のかかったような空が、いつもより余計に空気の透明さの印象を強める。だいたいにおいてそうなのだ。高橋はビルとビルの隙間で嘔吐した日のことを思い出す。その日はとても暖かく、ただし、暖かいことを何かの免罪符にしているかのような不快な夜だった。壁にしがみつき、下を向いて数分のあいだ内蔵のことを考え、吐いた。彼にとってそれほど珍しいことでもなかったのだけれど、その日は不思議に身体が上気していて、すこし空を見上げてみようという気になった。そのときに見た夜の空を空気はあまりにも不透明で透明だった。今日の空に似ていた。と、高橋を除いたあとの二人はいつの間にかずっと前方にいて、高橋も慌てて歩き出す。初恋の物語なんて聞きたくないのだろうか。
「で、とりあえずこれからどうするの?帰る?」と成瀬が言うと、野沢が答える「どっかファミレスでも行かね?」
「お前さっき時間ないとか言ってたんじゃないのかよ」
「うっさいな、こんな時間から何かできるってのか?できないっつうの」
「出てきたとたんに幸せを探す時間を無駄にはできんって言ってたのはお前だろ」
「まあまあ、なんとなく出てきちゃったのは私たちだってそうでしょ。ほらほらほら!そんな喧嘩しなーいしなーい!」
「テンション高いな……酔ってる?」
「酔ってないよ」
「酔ってるだろ」
「酔ってないっつうの」
「……あーもう分かった分かった、とりあえずファミレスな」
 野沢の仲裁に、「さんせい」と二人の声。
 街灯が黄色から青に変わる。


 散乱する街灯の光によってつくられた三人の影は青く悲しみをたたえ、そこらじゅうから聞こえてくる物語の鳴き声に耳を傾けることもしない街の人々のうちに紛れてしまう。タクシーが空から降りてきて、休日出勤のち雨、サラリーマンをさらってゆく。大通りを端まで歩くうち、たくさんの人々とすれ違う。過去に一度ならずすれ違ったことがある人だってそこにはいたかもしれない。もちろん三人のうちの誰もそれに気づくことはなかったし、相手にしたって同じことだ。一回きりのすれ違いはそれぞれの人生にそれぞれの場所を与えられ、そして忘れ去られていく。そうしたすべての生もいつかは忘れ去られてしまう。そんな世界が、宇宙があったことさえ神様は忘れてしまうのだ。神様の全知全能をもってしても、宇宙と、それに属するあらゆる物の数はあまりに多すぎる。細かなちがいなんて覚えているだけ無駄というもの。神様は合理的で、有り余る残酷さと、それに見合うだけの慈悲を持っている。大通りを歩く誰一人として他の宇宙のことを知らない。ここがどこの宇宙に似ているのか、そこに住むたくさんの人たちがどんなことを考え、何を幸福としているのか知らない。知らないほうが合理的なのだ。それで十分事足りるというものだ。そして大通りは途切れ、そこから右へ曲がると川が流れているのが見える。


 てんでに歩くまわりの人たちとの間でどんな相互作用があったのか、ずいぶん時間がかかったものだ。ようやく人通りも絶え青色の街灯もまばらになってきた橋のたもとにファミレスの看板が立っている。
 三人が階段を上りはじめたところで、さっきから無口だった野沢が話しはじめる。「おれね、音楽で食っていきたかったわけよ。お前らも一回おれのライブ観にきたことあるだろ、ちょうどあの頃だよ、メジャーでCD出さないかって話があってさ」
 高橋はドアに体重をかけて向こうがわへ開く。「はじめて聞いた話だな」
「えっ?」成瀬が入り、最後に野沢。「あのすぐ後に、おれ音楽やめるわとか言って急に髪切って就活はじめたんじゃなかったの?」青い光芒。店内は明るくて涼しい。いらっしゃいませと店員の声。三人です。ではこちらへどうぞ。
「格好悪いからデビュー決まるまで秘密にしようと思ってて」
「で、結局決まらなかったと」
 あれは歯車の音だろうか。今時珍しい機械式のコーヒー・マシンのようで、高橋がそちらへ浮気をしている間に残りの二人はいちばん奥の席へ向かう。今では使われなくなった技術にもそれを必死で作った人たちがいて、このコーヒー・マシンが無くなれば、きっと彼らのことなんて忘れてしまうに違いないのだ。せいぜい、保健所で殺される物語の鳴き声が時おり思い出させてくれるくらいのものだ。それを目当てにあの仕事に就く奴もいると聞く。物好きな奴もいるものだ、と、高橋がようやく座ったところで野沢はまた話しはじめる。歯車の音は店内のBGMに混じってしまいもう聞き分けられない。
「契約の直前まで行ってたんだけどさ、ちょっとしたことで振り出しに戻っちゃって。なんでか説明しにくいんだけどさ、それで冷めちゃったんだよ」
「よかったじゃん」
「正直今はそう思うよ。変な夢を見なくてよかったよな、とか。でもさ、あの時はほんとにこれでいいかって思ったりしたもんだよ」
「なんで」高橋は不思議に思い問いかける。「いきなりそんなこと思い出したんだよ」夢らしい夢なんて持ったことのない自分にはよく分からない話だ。それとも忘れてしまったのだろうか。
「結婚の話だよ。今もそうやって音楽してたら結婚のことなんか考えたりしなかっただろうってこと」
「そうかな、それはそれでヒモになりたいとか言ってそうだけどね」と成瀬。カーディガンを脱ぎながら。ワンピース。肩紐。鎖骨。
「ヒモと結婚は違うだろ」
(野沢の奴、胸見てんな)「お前の場合似たようなもんじゃね?」
 店員が水を運んでくる。繁華街から外れたところにあるせいかあまり繁盛していないようで、向こうにカップルが一組、隣には中年の女性が一人だけ。コーヒーも料理も自動で作られるし、店員も暇なのだ(ラッダイトをしなくちゃ)。注文がお決まりになったころに伺います。
「うるせえな。まあとにかくな、おれも今の仕事そんなに嫌いじゃないし、だから別にいいんだけどさ」野沢はそう言ってメニューを広げる。


 そういえば神様ってどんな人(人?)なのだろう。料理人みたいなものなのかもしれない。与えられた食材は豊富でも、口に合う組み合わせはそんなに多くない。経験豊富な神様ならば、味付けで勝負をするのだろうか。そんなたくさんの神様が、これまでたくさんの宇宙を作ってきた。神様がつくった宇宙のなかにもたくさんの神様が生まれ、そこには自分を作った神様が住んでいたりもする。無限降下あるいは循環。呼び出しのボタンを押すまでもなく、惜し気もなく宇宙を創造する神様たち。残念ながら歯車と歯車を噛み合わせ材料を入れるだけでは宇宙は創造できない。調理場はいつも大忙しだ。作ったものなんて片っ端から忘れてしまう。たまには水でも飲んで休んでください、神様。あなたの作る宇宙なんて、どうせ大同小異なんです。大丈夫、あなたが創った宇宙につくられた神様が働いてくれますよ。あ、ぼくもドリンクバーで。


「いやー、幸せってのは誰かと比べたりできないもんだしねー」
「どういう意味だよ」
 ドリンクバーでコーラを注いだ高橋が戻ってくる。「高橋もそう思うでしょ」
「ん、あー……ごめん、何の話?」
「結婚式が夢がって話してたらなんかそういう話に」野沢は顔をしかめて、ほかの二人に交互に視線を向ける。高橋が席につく。
「すまん、話の流れがまったく読めんのだが」
「だから、江理奈幸せそうだったなあって。で、でね、でもそれってどのくらいの幸せなんだろう、もしかしたら私がブルーハワイ食べてるときの幸せくらいなんじゃないかって思って。そういう話」
「またブルーハワイかよ、っていうか最初からそうやってちゃんと説明したらもうちょっと……」と野沢。
「いや、ブルーハワイってのは、例えばの話ね」
 コーラの泡がぱちぱちはじけていく。閉じた系では不可逆的にエントロピーは増大していく、そうやって成瀬のやわらかな吐息も、野沢の煙草くさい呼吸も、ぜんぶぜんぶ、そうしたたくさんのものが混じった空気をいまこうして吸っているのだ。この太陽系をつくった大爆発の破片が遍在する地球に生まれ偶然にもこうして生きてきた自分たちは、ほんとうに別の、独立した生き物なんだろうか。「成瀬は昔からそうだよな、みんながお前の頭の中覗けるわけないんだよ。つうか、誰も他の人間の頭んなかなんて覗けないんだが、その」
「だいたい覗いてくれる二人だと思って言ってるんじゃない!ほら、信頼の証っていうか!」
「嘘つけ。初めてのゼミのときにも先生から同じこと言われてただろ」
「あー、あれは……」
 大昔の偉人が最期に吐いた息に含まれていた酸素分子のうちのひとつひとつはとんでもなく拡散し、この時代ここに住んでいる人間の息のなかにもそれは紛れているんだという話はよく聞くけれど。「いや、もう諦めてるからいいよ」それだったら自分の吐いた息の分子なんていくらでもなあ。……無限降下あるいは循環。「それよりなんだっけ、結婚式の話だっけ?」
「そうそう、何がどれだけ幸せってのはさ」ぴるりらりらり。「あ、ちょいまち、真理ちゃんからメール」
「誰だっけ」「誰でしたかね」「誰だろ」
「あんたらほんと薄情だね…ほら、芝浦研の」
「あー、隣の」「いっつも先生にいじめられて泣いてた」「だからよくうちに来てた」「あの」「あれか」「今日呼ばれてたのか」「へー」「っていうか名前、真理っていうんだ」「泣き顔しか覚えてねえ」「たしかに」BGMが変わり金管の響きが店内を満たすと、すぐ隣の席で女が泣き出す。三人は一瞬そちらを見やるが、まず野沢が自分のコーヒーカップに視線を戻し、高橋と成瀬もそれに続く。女は鞄に仕舞っていた鶏(死んだばかりに見える)と包丁を取り出す。
「……まあいいや。うちらけっこう仲よかったのよ。今でこそこういう機会でもなきゃ会ったりしないけど、あの頃は週末の予定立てるときにいちばんに電話してたの真理ちゃんと江理奈だったんだから」そう言いながら成瀬は携帯を器用に操る。
 人と人との関係なんてものは外部からのエネルギーの介入がなければ離れていって云々、高橋は考えつつも、やはり言ってみせる。「薄情なのはどっちだっつう話だよ」エネルギーは分散してまたどこか。循環。
「だよな」
「おれたちなんてさ、ずっと仲いいわけだし」「……それはどうだろう」「えっ」「えっ」
「分かった分かった」と、いつの間にメールを打ち終えたのか、成瀬はテーブルに肘を付き、オレンジジュースを飲みながら白い眼。「なんか、誰も知り合いがいなくて寂しいってさ」向こうの席のカップルが笑い声をあげる。濁音が多い。三人の居るテーブルから、300分の一秒前に。
「ほら薄情だ」高橋。
「残ってあげればよかったのに」野沢。隣の席からの打撃音、最後のシンバル。
「いい男見つけるんだ!って言ってたから、私みたいなのが横に居ると邪魔かと思って」成瀬が口を尖らせる。向こうの席からこんどは静かに、食器がかちかちぶつかる音がする。緩徐楽章がはじまる。床にモップをかける店員、床に転がっていた鶏の頭がモップに運ばれていく。オレンジ色の床がなめらかに光る。
「ほう、成瀬さんのような美人がいらっしゃると引き立て役にしかなれないだろうと、そういうことですか」と野沢。
「んなわけないでしょ……真理ちゃんが美人だってことも覚えてないの?」成瀬。
「いや、それは最初に思い出した」高橋。
「冗談だって」野沢。
「なんかそれはそれでムカつくなあ」成瀬は手で髪をかき上げる、頭を掻く、続ける。「まあいいや、で、幸せの話ですよ」オレンジジュースがなくなって、氷だけ。ストローがずずずと音をたてる。1000分の一秒前。拡散。
「真理ちゃんはいいのかよ」「お前なんだいきなり真理ちゃんって馴れ馴れしい」「お前が美人だって言うから」「っていうか成瀬はお前、どんだけ幸せの話したいんだよ」
「いいじゃない、友人に先を越された哀れな私の話くらい聞いてよ」
 天井のシャンデリアががちゃがちゃと音を立て、形を変えていく。色を変え、またたきながら。


 当たり前のことを言ってしまうと、神様とはぼくのことを指し、あなたのことを指している。河原で石を拾い集める神様、居酒屋で顔を真っ赤にさせている神様、家畜の血抜きをする神様、暗い夜道で自動車を走らせる神様、極度に抽象的で高踏的な遊びに興じる神様、森の中で銃を持ち歩く神様、透明なドームの中で一人凍える神様、中性子でできた神様、数学的問題の証明に時間を費す神様、満員電車に揺られる神様、あるいは、ぼくには想像もつかない宇宙に生きる、ぼくには想像もつかない姿をした神様。


 いや、単純な話なんだけどさ。と成瀬は話しはじめる。
「単純な話なんだけどさ、江理奈が結婚式で幸せだったなーって思うとするじゃない。で、たとえその人のなかで幸せ度数が数字で測れるとしても、いやこれだってずいぶん怪しいもんだけど、ともかくそれって私の幸せ度数と比べられるのかなってこと」
 歯車を使って抽出された抽象的なカフェ・オ・レが店員に運ばれてくる(なぜ彼女だけドリンクバーを頼んでいないのだっけ?)。抽象的なカップに入り抽象的な淀みを抽象的に揺らすそれを、成瀬は抽象的なスプーンで具体的に攪拌する。
 ただのカフェ・オ・レのカップを右手で持ち上げながら「さっきも言ったけど、もし私が江理奈だったらさ、『あれ?これってハワイでブルーハワイ食べてるときと同じくらいの幸せしかないじゃん?』って思うかもしれない。だけどさ、そういう比較ができるかっていうと、できないよね」窓の外の風景は凍りついたように動かない。今日は風が穏かだ。マンションの一室、灯りが消える。
 野沢のハワイにはブルーハワイなんてないという突っ込みは無視され(最初にブルーハワイって言ったのはお前だろと高橋は考えたけれど、口には出さなかった)、成瀬は話を続ける。「私は江理奈にはなれないし、江理奈は私になれないわけでしょ。でさ、たとえば、んーと、高橋が銃をつきつけられて、脅されたとする。『助けてほしければ、成瀬がブルーハワイを食べるか江理奈が結婚するかどちらかを選べ!』って」
 ただのカフェ・オ・レに唇を付ける成瀬を見つめる高橋。「江理奈の結婚だろうな」怪訝な顔というのはまったくこういう顔のことを指すのだろう。
「でもさ、さっきも言ったように、その二つの幸せは比べられない、すくなくとも私にとっては結婚よりブルーハワイのほうが幸せだもん」
 どんだけブルーハワイ好きなんだという野沢の突っ込みはふたたび無視される。彼はやれやれと立ち上がり、拭かれたばかりの床に足を滑らせながらドリンクバーへ。
「だからほんとうはさ、選べないわけよ、その二つって。すくなくとも、どちらが世界を幸せにするかなんて尺度で考えることなんて、できないわけよ」
「でも江理奈の結婚相手や親御さんやいろいろ」
「何?わたしのブルーハワイへの愛を馬鹿にし……って、うわっ」
 暗転。


「ファミレスの窓から街灯の青い光が……」
「ねえねえ」
「ん?」
「……おとうさん、まり、なんだかよくわかんない」
「そうかな」
「まりはまだこどもなんだよ」
「そうだね」
「だからむずかしくてわかんなかった」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。だからきょうはもうおはなししなくていい」
「これからがいちばん面白いところなんだよ」
「でもわからないんだもん」
「どこが分からなかった?」
「ぜんぶ。ぜーんぶ!」
「うーん」
「あしたはもっとおもしろいおはなししてね」と言って、やわらかくてちいさなぼくの生きものはむこうを向いてしまう。彼女は毎晩ぼくにお話をせがんでくる、だからぼくは毎晩こうしてお話をつくる、彼女に伝えたい大事なことがあって、それをお話のなかに込めるのだけど、いつもいいところで、彼女は「わかんない」と言いだしてしまう。


(ほんとうはいみなんてひつようないんだ)


 ずっと昔から物語をつくることが苦手だった。今でもそうだ。さっきのお話を思い返してみる。ほんとうに、ぼくには想像力がないのだとため息をつく。本を読むのが大好きで、昔は作家になりたいと考えていたこともあった。しかしぼくには物語を書くちからが決定的に欠けていたらしい。たくさんの醜いのものとほんの少しのきわめて美しいものだけを書きたかったのだけれど、美しくも醜くもないものが物語には必要だった。それが想像力というものだ。物語の鳴き声はひどく遠のいてしまった。自動車は地面を這っている。物理法則は変わらずそこにあり、自分の存在を主張しつづけている。


(ものがたりがひとりでにあるきはじめるはずはないのだ)


 大事なこと。物語の登場人物であった彼らにも過去があったのだし、ぼくが語ることのなかった未来がある。物語をひとつつくれば、宇宙がひとつつくられる。語られることのなかった一本の樹木が花をつけ実を落とし、ぼくが語ることのなかった誰かが食べ、子孫を残し、そして死ぬのだろう。それぞれの宇宙はすこしずつ似ていて、そしてすこしだけ違う。
中絶されたそれぞれの物語のなかで、たくさんの醜いものとほんの少しのきわめて美しいもののあいだで、彼らは幸せに生きてくれているだろうか。きっと、ぼくよりも、そう思って、でも、と息を継ぐと、


「おとうさん、おならしたでしょ」
「ごめん、でもあったかいでしょ」
「くさいよ」
「ごめん」


 でも、と。